唐詩の中の惜別の地

 

文=李明慧 写真=魯忠民

古くから、玉門関と陽関を詩に詠む文人たちが絶えることはなく、二関の名声は広く伝わった。唐代の王之渙が詠んだ『出塞』の「羌笛何須怨楊柳,春風不度玉門関」(羌笛何ぞもちいん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)の名句が、玉門関一帯の荒涼とした光景、厳しい旅に向かう情景をよく表している。一方、王維の『渭城曲』にある「勧君更尽一杯酒、西出陽関無故人」(君に勧む更に尽くせ一杯の酒、西のかた陽関を出ずれば故人無からん)は、陽関にもの悲しさ、旅への憂慮、故郷への思い、送別の情感を与えている。

敦煌市内から車で西に向かい、オアシスやゴビ砂漠を抜け、さらに北西に向かって走ると、切れ切れに続く漢代の長城遺跡が目に入ってくる。城壁に沿ってさらに30分ほど行くと漢代の玉門関に到着する。玉門関は黄土とタマリスク、アシなどの植物を混ぜた版築工法で造られており、長い年月の間に進んだ風や砂による浸食で、現在は数面の土壁が残っているに過ぎない。実は、漢代の玉門関と唐代の玉門関は同じ場所ではない。王朝の変遷につれ、玉門関も何度か移転しており、現在敦煌の北西にある小方盤城と呼ばれているものが、すなわち漢代の玉門関と認められる古玉門関だ。しかし、場所は違っても、広々としたゴビ砂漠の上に唐詩に描かれた荒涼を想像するのは、依然として難しいことではない。

玉門関の名は和田玉(ホータン玉)がここを経由することからつけられたもので、古代シルクロードの天山北路ののどもとにあたる要塞。漢の武帝(紀元前156~前87年)が張騫を使者として西域に送り、アジアの内陸部を貫く交通の要路・シルクロードを開いた。そして、匈奴を討った後には長城を建設し、玉門関と陽関を置いて中国と西域諸国の交流を匈奴の襲撃から守り、シルクロードを障害なく安全に行き来できるようにした。そして、この二関を通じ中国特産の絹織物、茶葉、磁器、羅針盤、製紙技術、印刷術、火薬などが西方に伝わり、西方の香料やザクロ、ガラス、綿花、製糖技術などが中国にもたらされた。

 

 

人民中国インターネット版 2013年

 

 
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