玄奘の玉門関密出国

 

 

日本では三蔵法師とも呼ばれる唐代の高僧玄奘(602~664年)は、朝廷に仏教の発祥地である古代インドに行き仏典を持ち帰ることを願い出たが、当時は唐の太宗李世民(599~649年)が帝位に就いたばかりで政局が安定せず、出国管理は極めて厳しい状況で彼の請求は認められなかった。しかし、玄奘のインド求法の旅への決意は固く、許可がないまま秘密裏に西に向かうことを決めた。629年のことである。

玉門関は古代インドへ行くには必ず通らなければならない場所で、現在のパスポートに相当する「通関文牒」を持たない玄奘は玉門関をこっそり通過しなければならなかった。当時の玉門関は疏勒河岸に建てられており、この河は流れが急で渡るのは極めて難しかった。玄奘が途方にくれていたまさにその時、この地にいた一人の石槃陀という胡人(北方の遊牧民または西域人と言われる)が現れた。仏法にあこがれ玄奘の弟子となった石槃陀は、木を切って草を敷いて橋を架けて河を渡らせる方法で、玄奘に玉門関を迂回突破させた。後のある研究者によると、石槃陀こそ『西遊記』の孫悟空のモデルではないかという。残念ながら石槃陀は孫悟空のように玄奘につき従って西方にまで行くことはなく、ゴビ砂漠に入るなり劣悪な環境に恐れをなして逃げ出してしまったという。

645年、玄奘は天山南路を西から陽関に入り長安に戻った。前後17年、3万キロにも及ぶ旅を終え、600部余りの経典を持ち帰った玄奘は、太宗はもちろん一般民衆からも大歓迎を受けたという。

紀元前2世紀、世界三大宗教の一つである仏教は、シルクロードに沿って早くも現在の新疆ウイグル自治区を中心としたエリアに伝わり、その後玉門関、河西回廊を通って中国の中原地域から次第に全中国に広がった。代々の僧侶、信徒による伝播と交流を経て、さまざまな芸術様式が生まれ、壁画から彫刻、建築にも各国ごとの特徴が融合された。また民族の盛衰に伴って、塞(サカ)、羌、大月氏、匈奴、突厥などの民族がシルクロードに沿って西に向かって移動し、一方ギリシャ人、アラブ人、アーリア人が東に移住した。シルクロードの歴史は、つまり中西文化の交流史なのだ。

 

 

観光客はラクダに乗り、シルクロードの旅を体験できる 
 
玉門関から出土した、古代のパスポートにも相当する通関文牒 

 

人民中国インターネット版 2013年

 

 
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