王陽明が開いた陽明学派は明代中期以降儒学の新たな学派として、中国のみならず日本にも大きな影響を与えた。日本の明治から昭和にかけての哲学者高瀬武次郎は、「わが国の陽明学の特色は、その活動の事業家を有することで、中江藤樹の大孝、熊沢蕃山の経綸、……ひいては明治維新の各豪傑たちの驚天動地の業績も、ほとんどすべては陽明学の賜物である」と述べている。
王陽明は余姚に生まれ少年時代を過ごした。故郷に伝わる深い文化的恩恵の薫陶を受け、故郷に特殊な感情を持っていた。彼は度々帰省して先祖に参ったほか、余姚龍泉山の中天閣で講義を行い、「龍山講会」を創設した。ここから故郷には多数の陽明学の中堅学者が育ち、余姚を陽明学の研究と普及の一大基地にしていった。
「心即理」は陽明学の基本的観点だ。王陽明は、心は体を支配する力であり、宇宙を統べる理であると考えた。つまり、理は心の中にあり、それぞれの人はみな聖人となる条件を備えているというものだ。実は、王陽明はまず封建道徳倫理の「三綱五常」を「天理」と奉じる朱子学を信奉した。しかし、当時の社会の気風や学風は不正で、王陽明は次第に朱子学の「物理」と「吾心」を切り離す観点に疑問を持つようになり、南宋の陸九淵(象山)の心学の継承・発展に転じて、心学体系を確立した。
王陽明の名声に比べると、日本に渡る前の朱舜水は民間の文化人に過ぎず、知名度もさほどではなかった。しかし、「反清復明(清を倒し明を復興させる)」の望みが絶たれ日本に寓居することになった朱舜水は、長崎や江戸で講義を行い、中国の伝統文化を伝えた。日本に滞在すること23年、彼は儒教の大同思想に従い、自ら実行し、日本に儒学と経世済民の実学理念を伝えたのだった。朱舜水と余姚、日本に関する物語は、詳しく後述する。
王陽明やその後に現れた多数の文化人により、余姚には「文献名邦」の美称がある。価値ある著作や文物が豊富で、賢人や学者が多数出た土地であるという意味だ。今でも、余姚の人々は先人を敬い、伝統を重んじており、王陽明や朱舜水の名がつけられた道路や学校、公園などが見られる。古くからの伝承は、余姚に豊かな文化の蓄えを築いており、先賢の修養を重視し気骨を持ち続ける精神に学び、余姚の人々は心を沈めて思索を行い名誉や利益を追い求めずに学ぶ姿勢を受け継いでいる。 |