明の滅亡後、明の宗室は華中、華南に相前後して亡命政権を立て明朝再興を図ろうとした。南明政権は、儒学者で武芸にも深い造詣を持つ朱舜水を招聘しようとしたが、明朝の腐敗ぶりを熟知していた彼は、それに応じようとはしなかった。しかし、1644年に清が北京を都に定めた後、清軍が引き続き南下して民衆を迫害すると、朱舜水は師にあたる張肯堂の招きを受け、清への抵抗に身を投じた。明の官僚の腐敗ぶりには不満だったが、明朝の民として、清軍の血なまぐさい弾圧ぶりを見て、やはり「反清復明」の立場を選んだといえよう。
抵抗に参加した朱舜水は軍事費を調達するため安南(現在のベトナム)、暹羅(現在のタイ)などを巡り、日本にも出向いた。1658年、6度目の来日で長崎に上陸した後、近松門左衛門の『国性爺合戦』でも知られる鄭成功の招きに応じ、清との戦いに参加した。鄭軍は一連の戦いで清軍に占領されていた多くの地域を奪回し、南京南郊に至り清軍を震え上がらせた。しかし、鄭成功は過信から南京城の攻撃で惨敗し、残った兵を率いて厦門(アモイ)に引き上げ、さらに台湾に向かって在台のオランダ軍を攻めて台湾を回復した。
当時、中国の主要な都市や要塞はすべて清に征圧されて大勢は決しており、朱舜水は明朝復興の望みはついえたことを悟った。しかし、辮髪など清の習俗に従うことを潔しとしない朱舜水は、明の遺民として7度目の渡日を決意した。1659年のことだった。そして、彼が祖国の地を踏むことは2度となかった。 |