明末清初の時期は、日本では江戸時代前期にあたる。この時期に日本に渡った朱舜水は、日本の思想界に新鮮な空気を送り込んだ。朱舜水は儒教の古典や礼儀に通じ、中国文化の多くの分野を熟知していた。また、生活や生産に関する技能も持っていた。徳川光圀や柳川藩士安東守約など多くの教え子が広めた日本の朱子学や古学、水戸学はどれも朱舜水の影響を受けたものだ。
余姚歴史文化名城研究会の理事で、余姚檔案史料研究会会長の諸煥燦さん(70)は、朱舜水は学問的には朱子学に賛同していたと考えている。朱子学の基礎の上に、朱舜水は多くの事柄を包括する学風を主張し、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」ことを強調し、実理実学を提唱し、「王道復古」の学術的観点を尊重し、日本の歴史の流れに合わせて儒学が変化・発展することも容認した。
朱舜水は実学を重んじ、自らの学問を農作物や家具のたぐいだとふざけて話したこともあるという。現実の生活の中で、彼の学問は天文、地理、歴史、建築、医学、稲作、養蚕、茶芸、調理から冠婚葬祭に至るほど幅広く、歩く百科事典だと、日本の幅広い層の人々から賞賛された。
諸さんは、朱舜水は陽明学に否定的な態度を持っていたと考えている。しかし、王陽明に関しては非常に尊敬していた。朱舜水は余姚の龍泉山の北のふもとに生まれたが、その西北100㍍ほどの場所に、王陽明が生まれたとされる瑞雲楼があり、朱舜水は「燃灯相照らし、鳴鶏相聞く」と語った。ただし、王陽明は朱舜水より128年前に生まれており、二人がひざを交えて思想について意見を交わすことはかなわなかった。 |