余姚龍泉山の山頂にある龍山公園内に、「朱舜水先生記念碑」が立っている。1982年、日中文化交流協会と日本朱舜水先生研究会が朱舜水没後300年を記念して建立したものだ。碑の後方には余姚の人が建てた舜水亭があり、一碑一亭が隣り合って並んでいる。
朱舜水は余姚には8歳まで暮らしたが、父親が亡くなり、兄に引き取られて松江府(現在の上海市蘇州河以南の地域)に移り、儒学生となった。余姚で暮らした期間は長くはないが、彼は故郷に深い感情を持っていた。
朱舜水はもともとの名を朱之瑜といい、日本で学問を教える時に学生たちの求めに応じて、故郷を流れる河「舜水」(姚江のこと)を号にするようになったのだ。日本に暮らした20年余りの間に、朱舜水は家族に何通もの手紙を送った。そこには余姚の細かな地名や友人の名が書き記されていたが、当時の通信事情から多くの手紙は故郷まで届くことがなかった。余姚出身の作家・評論家の余秋雨は『山居筆記』の中で次のように書いている。「白髪の彼(朱舜水)は一度また一度と日本の海辺に立って遠く西方を眺め、声を上げずに泣いた。彼は死ぬまで故郷の余姚を思い続けたが、謙虚に誠実に彼を崇拝する日本の人々は、その遺骨と墓を永久に留まらせたのだった」 |