高原=文 馮進=写真
1949年生まれの周開国さんは新中国と同じ年であり、山あり谷ありの半生を送ってきた。ちょうど知識青年の下放の時期にあたったため、中学卒業後は内蒙古の農村で畑を耕し、とても苦しい生活を送った。家族に封筒と切手を送ってもらわなければ手紙のひとつも書けないくらいだった。何年か後に炭鉱労働者となり、低くて狭い坑道で、汗だくになって仕事をした。その後に鉄道局に入り、他人の羨望の目の中で再び転職、内装工事会社を開いた。退職して、のんびりできるようになっても、昔からの習性で何かやらないではおられず、北京郊外の農村にある農家を買い取って、その屋上で作物や果物の栽培を始めた。
屋根の上の豊作
2000年、周開国さんは北京昌平区小湯山鎮酸棗嶺村に700~800平方㍍の農家を購入し、その屋上にさまざまな野菜や果物、穀物などを植え始めた。今年で14年になるが、彼の家の屋上や外壁は完全に緑で覆われていて、緑の城のようである。周さんは上に下にと続く迷路のような小道を通り抜けて、われわれを屋上の畑へと案内し、彼の植えた120種余りの作物を見せてくれたが、それに対する誇りが言葉と表情に溢れ出ていた。
足元だけでも、チンゲン菜、ヒユナ、タイサイなどが見られ、藤棚の上には大小さまざまなトマト、キュウリ、インゲンなどが下がっていて、頭の上の鉄の棚の上にはカボチャ、ブドウがある。さらに上方の木にはリンゴ、ナシ、アンズ、カイドウなどが実っている。すべてのものが少しずつだが、彼の一家と、近所の人々におすそ分けするには十分な量である。また、彼はしょっちゅう都会に住む友人たちを家に招き、みんなに大きな袋いっぱいの野菜のお土産を持たせるものの、それでも食べ切れない量である。本人の推測によれば、この667平方㍍の面積で、毎年野菜が3500㌔、果物が1500㌔ほどできるという。今年、周さんは畑の一部でトウモロコシ、コウリャン、麦なども栽培しており、盛夏には人の背ほどの高さに育ったコウリャンが、頭を垂らして収穫の日を待っているという。
ここ数年、周さんのこの家を見学に来る人がとても多くなり、見学者はみなびっくりして、「どうやって植えたの?」「家に水が漏れたりしないの?」などと尋ねる。彼は、「現在の防水塗料はとても進んでいて、屋上にプールを作ることができるくらいだから、畑くらいはまったく問題なく、浴室に防水を施すのと同じだよ」と答える。彼は内装業の経験があるため家屋構造と荷重能力の計算ができ、具体的な状況から、何をどのように植えるかを決めることができる。現在、彼の家の屋上には二重の防水が施してあり、さらにセメントが塗られているので、上に30~40㌢の土を載せることができ、果樹を植えても問題はない。また、雨水収集システムと排水システムをつくりあげたので、ここ十数年、家にはまったく問題がないそうだ。「この立派な果樹を見てください。ふだん水をやり、冬に枝の剪定をするくらいで、さほど手をかけてないのにこんなによく育ち、農民が育てたものに劣りません。私のこの十数年の経験は、『屋上農業』が可能であることを証明しています」
緑化だけでなく作物栽培を
周さんは、小さい頃から植物を育てるのが大好きだったという。少年時代、3年続きで自然災害に見舞われた際、北京市は各家庭で場所をみつけて野菜や穀物を育てるように呼びかけた。彼も家族と共に野菜を育てたが、しだいに興味を覚え始め、さらに学校の農業機械の授業で、接ぎ木や挿し木の技術を学んだため、実践で使いたくなった。彼はその時、中国で耕地が不足しているのなら、屋上などの場所も利用してはどうだろうかと考えていた。北京では風が吹いて平屋の屋根の上に土が積もり、そこに草がぼうぼうに生えているのだから、野菜や穀物も育つのではないだろうか。このような夢を抱きながら、彼は草原、炭鉱、鉄道、建設現場などを経て、退職後、北京の郊外で、少年時代の屋上での作物栽培の夢をかなえるチャンスをようやく手に入れたのである。
今では周さんは、自分のこの屋上での栽培経験が都市や人口が多く土地が少ない村で広まることをとても期待している。現在、都市のヒートアイランド効果はひどく、多くの場所で屋上緑化が始まっているが、ただ草花を植え、投入だけで産出がないのはもったいなく、人々の積極性も引き出すことはできない。しかし野菜や穀物の栽培なら異なる。また、ある意味では都市の高層住宅は、彼の家よりもさらに野菜栽培に適している。なぜなら、屋上が高く、虫害が少ないからである。高層住宅の住民がたまに屋上に散歩にやってきて、自分の菜園の野菜が大きくなっているのを見れば、どんなに慰めを感じるだろうかと彼は思うのだ。
屋上の楽園
周さんが酸棗嶺村に腰を落ち着けた後、現地の農民のために何か力になりたいと考えた。特に自宅の屋上菜園が隣人たちの見本となって、全村で屋上緑化ができればと望んでいた。しかしすでに十数年が経つが、まねる人は多くない。村人にとって、こうしたことはお金ばかりかかり、その見返りが少ないように感じるのだ。周さんは、お金はさほどかからないことを力説するが、人々の考えを変えることはできない。彼が来たばかりの頃、村人はみな彼を変わり者だと思い、彼にどうして屋上で野菜を育てているのかと聞いたものだ。最近では、世間で屋上緑化が提唱し始められたため、村人は「周さんはすごい、時代を先取りしていたんだね」という。
次第に、多くの都会人が周さんの屋上菜園を見学しにやって来るようになり、都市の屋上やベランダでの野菜栽培を試みるようになった。多くの人が来るようになったため、彼はとうとう自ら自宅で農家体験プログラムを始め、自分で育てた果物を食べさせたり、都会の子どもに作物を見せたりして、子どもたちを喜ばせている。このほか、中国農業大学や中国林業大学の学生や教師がここにしばしば見学にやって来るのも、彼のやっていることが認められた証拠と言えるかもしれない。
今では周さんと彼の奥さん、お手伝いさん一人でこの畑を維持している。彼は都会人が農村に来るのに、空気がきれい、環境が良いということはさほど重要ではないと感じている。田舎の最大の魅力は自由であり、この小さな家は彼にとって広い天地であり、自由に思うがままの楽園を設計することができる。彼にとって「今日の農居」と名づけたこの家が、人生の中でも最重要な作品となっている。少年時代から紡ぎ続けた農業の夢が、ついに叶えられたのである。
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