再出発は戦犯管理所から

 

 

供述書読み心に深い痛み

今年82歳になる中国政法大学の廉希聖教授は、今でも裁判のことを思い出すと感慨で胸がいっぱいになる。当時、彼は弁護士として日本の戦犯を弁護していた。

「戦犯の弁護士に指名されたのは1955年の下半期で、当時私は23歳だった。その時、戦犯らの直筆供述書の最終稿はすでに私たちの手元に届いていた。今回中央檔案館が発表した供述書だ」。これらの自供を読みながら、当時廉弁護士は心に深い痛みを感じた。「なぜ私は、同胞の血にまみれた戦犯を弁護しなければならないのか? 彼らの罪深さは人に歯ぎしりをして恨み憤らせるほどなのに、それを弁護するなど自分の良心が許せるだろうか?」

1964年3月、最後まで残っていた中国侵略日本軍戦犯が中国政府によって釈放され、帰国した(新華社)

「中国を侵略した日本軍の戦犯自身も日本軍国主義の被害者である」という上層部の指示に従って、弁護士たちは弁護報告書を書いた。「戦犯たちは軍国主義の教育を受け、武士道の精神をもって天皇に忠誠を尽くした。軍国主義制度の一部分として、彼らはただ国家の意志に服従しただけだ。私たちが書いた弁護報告書は、戦争の罪を一種の国家行為と認め、個人による主観的悪意とは見なしていなかった」と廉教授は説明している。

60年を経て裁判当時のことを再び振り返り、廉教授はしばらく考えにふけった後、次のように語った。「個人的な感情、民族感情、戦争の恨みなどは、司法プログラムに干渉すべきではない。戦犯たちは、自分のために弁護する弁護士を持つ権利がある。私は彼らの弁護士で、彼らのために弁護するのは、私の仕事であり、法律の尊厳を守ることでもあった」

1956年6月19日、戦犯を裁く特別軍事法廷が瀋陽市で開廷した。7月1日、島村三郎は被告席に着いた。「夏なので、法廷が蒸し暑かった。温度を下げるため氷が用意されたが、島村の服は汗でびしょ濡れだった。しかし、ずっと真剣な顔をしていた島村は一度も汗をぬぐわなかった」と、当時法廷スタッフだった権徳源さんは振り返る。

「抗日勢力を鎮圧する際、私は残酷な拷問にかけるよう警察に要求し、刑罰手段の限りを尽くした。悲鳴を聞いてもまったく気にかけなかったどころか、むしろそれを楽しんでいた。彼らのことを人間として見なかった。数年前、息子が死んだことを知った私は泣き崩れた。しかし、戦争時の私は人間性を持たない鬼だった。罪のない、誰かの息子や娘をどれだけ殺しても、一度も泣いたことはなかった」。自分の罪をすべて述べた後、島村は床にひざまずいて大声で泣き、自分に死刑を言い渡すよう法廷に求めた。

最終判決の日が来た。判決文書の内容はすべての戦犯の予想外のものだった、戦犯の誰一人死刑を言い渡されることはなかった。量刑が最も重かった者で懲役20年、1017人は起訴を免れ日本に送還された。

「日本の軍国主義教育によって、日本の一般軍人は人間から『鬼』に変えられたが、中国の寛大な心と正義の裁判によって、中国を侵略した日本軍の戦犯らはまた『鬼』から人間に戻った。『九一八事件(柳条湖事件・満州事変)』が抗日戦争の始まりとすれば、瀋陽と太原の裁判はこの戦争の終わりと言える。しかし、その本当の意味と後世に対する影響はそれだけではない」と中国近現代史歴史資料学会副会長の王建学教授は語っている。

撫順のアサガオが咲いた

中国侵略日本軍の戦犯らは中国で改造されて帰国した後、日本社会から差別を受け、ほとんどの人が貧しい暮らしを送ることになった。それでも、人生の大きな転換を経験した彼らは命の価値と平和の大切さを深く悟り、その後の日々の中で、中日友好を築くために揺るぎなく取り組んできた。

1956年、彼らは「中国帰還者連絡会(中帰連)」を設立し、日本に強制連行された中国人労働者の遺骨を各地で収集した。1963年2月、早期釈放されて帰国した藤田茂が、初代の「中帰連」の会長となった。彼は前後して6回、中国人労働者の遺骨を中国に送還した。1965年9月、藤田会長は代表団を率いて中国を訪問し、撫順戦犯管理所近くの山に銅碑を建てた。そこには「中国人民の寛大な政策に感謝します。侵略戦争に反対し、世界平和と日中友好を守るために奮闘することを誓います」と刻まれている。1980年、藤田はこの世を去った。享年90歳だった。臨終の際、彼は自らの子女に、「私は中国人民の学生だ。あの世でも中国の先生たちの恩恵を忘れない、一生奮闘してきた日中友好の事業を忘れない。私が死んだら、周恩来総理からもらった中山服を着せてくれ。最後の頼みだ」と言った。

2005年6月、旧日本軍老兵士たちが「ざんげ感恩の旅」と銘打って、彼らが言う「再生の地」の撫順戦犯管理所を再訪した (新華社)

副島進の家の庭では、毎年たくさんのアサガオが咲く。1956年、彼が撫順から日本に帰ろうとする時、中国側の呉浩然輔導官が彼に一つかみのアサガオの種を手渡し、「君には何もあげられないが、この種を日本に持ち帰り庭にまいてくれ。中日友好のシンボルとしてこの花を毎年咲かせてほしいんだ。そして、今度中国に来る時は、武器ではなく花を持って来てくれ」と話した。

副島が亡くなった後、彼の妻は彼が丹精したアサガオの種を撫順戦犯管理所に返礼として贈った。今でも夏になると、中日平和を象徴するアサガオが管理所で美しい花を咲かせている。

2002年、「中帰連」最後の会長である富永正三がこの世を去った。いまわの際、彼は自分の直筆供述書を子孫に渡し、後世の人々がこの歴史も、自分のざんげもしっかりと心に刻んでほしいと告げた。設立から解散までの46年間、「中帰連」の老兵たちは前後して『三光(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)』『侵略――戦争に参加する兵士の証言』『侵略――中国における日本戦犯の自白』『私たちは中国でなにをしたか?』など数十の著作を出版した。そのうち、撫順戦犯管理所の数多くの戦犯のざんげ録を収録した『三光』は半月で5万冊余りを完売し、一時はベストセラーの第2位にランクインするほど注目された。

「中帰連」はすでに解散したが、これらの老兵の精神を伝承する「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」は今でも日本社会において、引き続き日中平和を呼びかけ、日中友好に取り組んでいる。

ぶ厚い中国侵略日本軍戦犯の供述書を閉じて、王建学教授はこう語った。「これらの歴史資料は、歴史の悲劇を二度と繰り返さないよう私たちに訓戒を与えている。私たちにとって重要なのは、先人たちが中日平和と友好を構築するために払った努力に感謝し、大切にしなければならないということだ。そして、これを子々孫々に伝えていかなければならないということだ」

 

人民中国インターネット版

 

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