尊敬し合い理解し合い
勉強し合い進歩し合い
「草の根」の交流から中日関係の改善に
「プラスのエネルギー」を注ごう
王建華(吉林建築大学城建学院)
今年、私は中国・瀋陽の某大学院の日本語言語文学専攻を卒業した。在学中、常に起伏が生じた中日関係に関心を持っていた。氷点に達するほど悪化した中日関係は、我々日本語科の卒業生の就職活動に以前では考えられないほど悪影響を与えた。そのような状況でも、私は苦労を重ねて、ついに某私立大学で教鞭を執ることになり、日本語教師になるという願望が叶った。今年、就職のため、西安、武漢などの日本と関係のある都市へ行った。これらの都市に滞在していた時、中日関係は結局どこへ向かうのか、中日関係を改善する道は一体どこにあるのかを深く考えていた。
西安では、日本奈良時代の遣唐留学生である阿倍仲麻呂の記念碑を見学した。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という和歌を吟味した阿倍仲麻呂は日本の故郷を離れ、唐の長安(現在の西安)に来て、諸官を歴任して高官に登った。ところが交通・政治などの原因で、彼はついに日本への帰国を果たせずに中国で客死した。阿部仲麻呂は生涯を通して、中日関係の発展に大きく貢献した。
その時、中国は世界中の文化が盛んに発展した国であった。日本は遣唐使・留学生・留学僧などによって、中国から様々なことを学んだ。そして、日本も当時の中国朝廷に自国の国書や物品を奉献し、中国に一定の影響を与えた。西暦645年に日本は中国唐朝の真似をして、政治、経済面に様々な新政策を施して天皇を中心とする中央政権の国になった。この「大化の改新」と呼ばれる改革運動を通じて、日本は奴隷制度の国から封建的な国になり、日本の生産力にも大きな進歩をもたらした。
近代以降、アジアは資源豊かな所として欧米の列強に狙われた。逸早く列強の圧迫から立ち上がってきた国は日本であった。この時から日本は中国の学ぶ対象になっていった。当時の中国は各列強に虐められていた状況にあり、亡国の運命から脱する方法を見つけることが必要となる。当時の有識者たちは中国より進歩していた日本を選び、日本に多くの留学生を派遣し様々な先進技術を学んだ。これらの留学生によって持ちこまれた開明的な観点は当時の中国を発展させた。中国に甚大な影響を与えた有名人の魯迅、陳天華、秋瑾も日本に留学した経験があった。改革開放以降、中国は日本と経済パートナーシップになり、両国は貿易上の相互交流が多くなった。
中日関係の歴史を振り返ってみると、両国間に二千年余りの友好的な交流は主とする。この長い歴史は中日両国がお互いに尊重した歴史であり、お互いに学んだ歴史でもある。「古きを温ね新しきを知れば、以て師と為る可し。」中国と日本は一衣帯水の隣国である。歴史的、地理的に見ても、中日両国には生まれつきの繋がりがあり、両国間の交流を避けることはできない。もし、中日両国が尊敬し合い、理解し合い、勉強し合い、進歩し合うことができたら、両国の関係は一層深く友好的に発展することができる。しかも、中日という「引越しできない隣人同士」が「ウィンウィン」の関係を築くためには、尊重し合い、理解し合い、気持ちを通わせながら関係を築くことが必要ではないかと思う。これは中日関係史上の基本的な結論だと言える。領土や歴史認識に関する主張が対立する中日関係の改善の実現には、両国の政治家やメディアの努力も勿論重要だが、「草の根」の民間の努力も必要である。少しでも関係が改善されるように、自ら考えて行動すべきだと考える。
日本語に携わる中国人として、私も微力ながら中日友好のために自分なりの努力をしている。私の日本人の先生は2012年中日関係が悪くなり始めた頃、志願者として日本語を教えに中国へ来た。その二年間、私は先生の生活をサポートし先生も私の日本語学習を助けてくれた。祝日を一緒に祝ったり、食事をしたり、時には討議を交わしたりと数えきれないほどの感動を共有した。一番感動させられたのは、先生が中国を離れる際にたくさんの日本語参考書を私に贈ってくれたことである。現在の冷めきった両国関係の中、私は先生と暖かい国際交流を行った。このような中日国民間においてごく普通の交流活動には政治的な対立を乗り越えて、友好を育む力があると感じている。私の考えは、小さな親切でも良い思い出として互いの記憶に残り、後に周囲に語られ、さらにはその周囲にも広がる。一つの「小さな国際交流」で与えられる影響は限られているが、その機会が多ければ多いほど与えられる影響は大きい。他にも、両国国民間にできる「草の根」の交流はたくさんあると思う。中日の国民がお互いに尊重し小さな民間交流を重ねれば、微力ではあるが中日関係が改善に向かう確実な一歩となる。 |