「日本軍の暴行を話さないと、一生心が休まらない」 | ||
――95歳の元中国侵略日本軍兵士の懺悔 文=陳炳山 于英傑 「中国侵略日本軍の1人の兵士として、私は南京攻略戦に参加した。現在になっても、日本軍による暴行を思い出すと、恥を感じる」。大阪のあるマンションで、今年95歳になった元日本海軍兵士の三谷翔さんは記憶の重い扉を開き、77年前に目撃した南京大虐殺の惨状を再現した。過去を振り返えりながら現状を見て、三谷さんは安倍政権が歴史を顧みないことに憤りを感じ、「安倍首相をつかまえてこらしめてやりたい」と語った。
侵略戦争の加害者、被害者、反省者としての三谷さんの人生を一望すると、激しい歴史の移り変わりが彼の体にはっきりと烙印を残している。「真相を守り続けることが100歳まで生きて果たしたい唯一の使命だ」。 A加害者として 薄い灰色のすこし乱れたカール、黒縁のメガネ、大柄の三谷さんは体が不自由なので、取材が始まる前に、すでに一束の引き伸ばした白黒写真を椅子の横に用意していた。これらの写真は従軍後のさまざまな段階の彼の様子を記録している。ひとつの段階を話すたびに、三谷さんは一枚の写真を手に取って、しわだらけの両手で写真をなで、緊迫した場面を話す時は指が震えた。歴史の真相と人道的な反省にあふれる証言は、ほかの人に言い聞かせているようであり、軍国主義に騙されていた青年時代の自分との対話のようでもあった。 駆逐艦から目撃-中国人の死体を満載した4隻の筏が上流から流れてきた 1937年12月12日、南京防衛戦が最も激しかった時、18歳だった三谷さんは日本軍艦隊とともに南京に侵入し、烏竜山砲台を攻撃した。三谷さんは当時、日本軍の駆逐艦「海風」の信号兵として、射撃開始などの命令伝達が任務であり、中国防衛軍の防御陣地を長江から集中砲火した。 12月13日、南京が陥落し、日本の軍艦は下関江に停泊した。「私は下関埠頭の方から4隻の筏が流れてきたのを見ました。上にごちゃごちゃと乗っているのが全部人間だと分かり、これは偽装して襲撃しに来たのだと思い、私たちは10分間ほど射撃しました。筏にはなんの反応もありませんでしたから、上に積まれていたのがすべて中国人の死体だとうことが分かりました」 南京入城式-中山北路付近の広場に庶民の死体が山積み 三谷さんは、海軍の冬の軍装を着た写真を取り出し、語り続けた。「12月16日夜、翌日入城式に参加せよとの命令が伝達されました。参戦してからの2カ月以上、一度も土を踏んでいませんでしたから、岸に上がって式典に参加できると聞いて、みんなピクニックにでも行くような気持ちでした」 埠頭から挹江門までの道は瓦礫だらけだった。南京占領から4日が経って、散乱した衣類や死体が街のあちこちで見られた。「中山北路付近の広場で、私は積み上げられた死体の山が目に入りました。ひとつの山には少なくとも5、60体の死体が積まれ、地面は一面凝固した血でした。死者の多くは老人や女性で、子どももおり、一般市民であることは直ぐ分かりました。刀で刺されて死んだらしい人の死体も、首が落とされた死体もありました。一部の死体は全裸で、後ろ手に縛られていました。とても残酷で見るに耐えませんでした」。三谷さんはそう言って目を閉じた。 「中山北路だけでなく、南京全体が地獄に陥ったと思いました。陸軍は恥知らずで、やり過ぎでした」と、 写真を握る三谷さんの両手の震えは止まらなかった。「南京市全体が生気を失って、死んだように静かでした。鳥さえ見えませんでした。日本兵以外には、日の丸の旗を振る中国人がたまには通りましたが、旗を振らければ殺されたからでしょう」。 写真を置いて、三谷さんは長い間瞑目していた。 長江のほとりで―長江のほとりに運ばれた数台トラックの中国人が機銃掃射で惨殺 軍艦に戻った三谷さんは翌日、さらに恐ろしい情景を見た。「12月18日午後、軍艦のブリッジで見張りをしていると、南岸から機関銃の銃声が聞こえてきました。断続的に絶叫も聞こえました。軍艦は岸から500㍍ほど離れていました。双眼鏡で見ると、中国人が一組ずつ、銃声と一緒に倒れるのが見えました。まるで映画のスローモーションを見ているようでした」 その日からの数日間、三谷さんは朝から晩まで、一群一群の中国人が集団で虐殺されるのを見た。「トラックで20人、時には30人もほとりに連れてきて、機銃掃射していました。ダダダッ、ダダダッ……」-三谷さんは機関銃の音を真似てみせた。 恐怖に満ちた絶叫が機関銃音に交じり、数十秒してから静かになる。静かになったと思ったらまた響き始める。「私が南京を離れたのは12月25日でした。その日まで、下関埠頭では毎日こういう光景を見ました」。長江は当時、渇水期に入っており、水位が下がっていた。「虐殺後、一部の死体は泥に埋もれ、一部の死体は岸辺に折り重なっていました。日本兵が数人の中国人に死体を回収させているのも見ました。穴を掘って埋めたり、直接河に投げ込んでいました」。 中国侵略日本軍南京大虐殺歴史研究会の顧問で江蘇省社会科学院研究員の孫宅巍さんによると、南京・下関は中国侵略日本軍の虐殺と暴行が集中した場所の一つで、この一帯の石炭港、魚雷営、中山埠頭、草鞋峡などのところでは大規模な集団虐殺が行われた。三谷さんの証言は、日本軍の虐殺の時間、地点、方法、さらには死体の処理方法に至るまで、南京大虐殺の史実と符合しており、重要な史料的価値を持っている。
B被害者として 南京大虐殺の真相を目撃したが、沈黙を強いられることになった。休暇を願い出て正月を日本で過ごそうとした三谷さんは、南京で見たことを誰にも話してはならないという厳命を受けた。その後の数十年間、三谷さんは南京での見聞を一切口にしなかった。 戦後、故郷に帰った三谷は、自分が何もできないことに気付いた。家は農村にあったが、小さい頃から農作業を一度もしたことがない彼にとっては、最初から学ぶことは決して簡単なことではなかった。家から出て外で仕事を探すことも困難だった。三谷さんは自分も、日本が発動した侵略戦争の被害者だと思っている。「戦争のせいで、学業を続けられませんでした。実家のある愛媛県も爆撃を受け、故郷を失った。戦争が嫌になった」 三谷さんは労苦を嘗め尽くしてやっと仕事を見つけ、「巡回所」で治安維持に従事した。その後、また京都で肉体労働をやった。当時住んでいた家は風が吹き込み、雨も漏った。1960年の台風で屋根が飛ばされ、家ごとなくなってしまった。住む場所を失った三谷さんは大阪に流れて行った。「大阪では何でもやりました。日雇いもやったし、米も売ったし、牛の屠殺もやったことがあります。流浪の生活は本当に苦しかった」 三谷さんは最後に、大阪のある病院で仕事を見つけ、ようやく安定した生活を暮らし、定年まで働いた。 C反省者として 95歳になった三谷さんは今でも言葉がはっきりしていて、考えもしっかりしている。軍国主義教育が彼や彼の同年代の若者を戦場に送ったと思っている。日本は歴史を認め、心から反省してこそ、許しを得ることができ、永遠の平和を得ることができると、三谷さんは信じている。 ▽小さい頃から軍国主義教育 「天皇のために命を捧げることが最高の名誉だという教育を私たちは子どもの頃から受けました」。三谷さんは小学生時代の写真を手に、こう語った。当時、授業の開始と終了の合図には軍用ラッパが使われていた。遊ぶ時には、一方が中国軍、もう一方が日本軍の役を演じて、「日本側」の子どもが「中国人は皆殺しだ」と叫んだりもした。 続いて、三谷さんは歌を歌った。「この歌は『廟行鎮の軍歌』(『爆弾三勇士の歌』)と言って、当時の学生はみな歌えた歌です。『一二八事変(第一次上海事変)』の時、日本の3人の兵士が爆弾を抱いて、中国軍が守っていた上海の廟行鎮の陣地に飛び込み、部隊のために命を捨てて攻撃の道を開いたという話を歌ったものです」と説明してくれた。当時の学校は、こうしたエピソードで子どもたちを小さい頃から洗脳し、軍国主義の教育を行っていた。「早く大きくなって天皇に忠誠を尽くしたいと思い、18歳で海軍に入りました」 戦争末期、三谷さんは海軍航空兵の教官となっていた。彼は飛行服を着た姿の写真を取り上げながら語った。「これは北海道で撮ったもので、葬式用の写真です」。三谷さんの多くの教え子は「神風特攻隊」に参加し、自爆攻撃で命を失った。当時は、天皇のために戦死するほど名誉なことはなかった。教官だった三谷さんは戦場に行くことはなかったが、犠牲となる準備はできていた。 ▽大虐殺の真相を抹殺してはならない 1997年、三谷さんは新聞を通じて、松岡環さんが始めた中国侵略兵の証言を集める活動を知った。三谷さんは毅然として立ち上がり、証人として何度も集会に参加し、日本の公衆にこの時期の歴史を語った。 「南京大虐殺は存在しなかった?まったくのでたらめだ!」 三谷さんは憤慨する。「天皇のために命を捧げようという軍人が悪魔に変じ、捕虜や民衆を虐殺し、女性を強姦した。まったくの恥知らずです。日本の軍隊の暴行を語らず、南京の人民に懺悔しなければ、一生心が休まらない」。2007年12月、南京大虐殺70周年の際、88歳の三谷さんは家族に付き添われて南京に戻ってきた。 「出発前、何かトラブルになるのではないかと親戚はみな反対でした。でも、父の決意は固く、絶対に謝りたい、これが最後の機会だと言い張った」と三谷さんの娘さんは語る。 ▽100歳になるまで右翼と戦う 南京大虐殺に参加した旧日本軍兵士の大多数は戦後、沈黙を守る道を選んだ。これに対して、三谷さんは「理解できない。なぜいつまでも黙っていられるのか」と憤る。 今、日本の右翼勢力は、侵略の歴史を否定し、南京大虐殺を否定する声が上がり、安倍政権は、平和憲法の修正をはかり、内閣による解釈変更という手段で集団的自衛権の解禁を進めている。これに対し、三谷さんは怒りを隠さない。「安倍首相は本当にひどい。つかまえて、こらしめてやりたい」。日本政府が侵略の歴史を徹底的に反省せず、南京大虐殺の史実を認めず、心からの謝罪をしなければ、中国などの国の許しを得ることはできない。「軍国主義が頭をもたげれば、日本は再び戦争に巻き込れるかもしれません。反戦の力を結集し、軍国主義の復活を絶対に阻止しなければなりません」 「私の力は取るに足りないかも知れませんが、100歳まで生きて、歴史の真実を隠そうとする勢力と最後まで戦いたい」と三谷さんが語った。(新華報業伝媒集団提供 人民中国共同企画)
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