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獅子山陵は未完成? | ||||||
徐州の市街地から東に4キロ、雄の獅子に似たところから地元の人が獅子山と呼ぶ標高61メートルの小高い丘がある。1984年、獅子山の麓にあるれんが工場の従業員が工事中に兵馬俑を発見した。調査によって、出土した兵馬俑は漢代のもので、規模が大きく造形が美しく、塑像の芸術的特徴が秦の兵馬俑と異なることが明らかになった。秦の兵馬俑は写実的だが、こちらの漢の兵馬俑は秦代の様式の上に独自の創造性を加えている。顔の表情には写実的特徴が見られるが、体型は写意(作者の心情、対象の本質を表現しようとする)の手法が用いられているのだ。当時発掘調査に参加した考古学者は「これらの兵馬俑は孤立したものではない。兵馬俑付近には前漢の楚王が埋葬されている可能性が高い」と考えた。 1994年11月、文化財管理を担当する国家文物局が獅子山楚王陵発掘を許可した。漢兵馬俑博物館広報・教育部の李春雷主任は上海の復旦大学を卒業後間もなくこの発掘プロジェクトに参加した。「楚王陵発見後、心は期待に満ちていました。発掘過程では盗掘者の通路も発見され、陵墓が空ではないかと非常に心配しました。幸運にも破壊の程度は軽く、主な歴史的文化財は残されていました。それら文化財が出土すると、漢代の軍事、政治、生活、文化、習俗など各方面の問題が解決されたのです」
そして、考古学的調査と分析で、獅子山楚王陵内で多数の墓室内壁がまったく加工、ならしが行われていないこと、ひいてはまだ開削が終わっていない墓室さえあることが明らかになった。史料の記載によれば、劉戊は「七国の乱」に関与した人物だ。楚王一族は自分たちの利益を守るため、彼に自殺を勧め、劉戊は自らの死をもって皇帝に一族の許しを請うたという。こうした事情から、楚国宮廷は慌てて彼を葬った。もし獅子山楚王陵の主人が確かに劉戊だとするなら、数々の痕跡は、この漢墓が造営が間に合わず未完成という事実を証明していることになる。
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人民中国インターネット版 2015年6月 |