張家口堡―軍事要塞から貿易都市へ

張家口市にある長城の関所──大境門 
 

張家口市橋西区にある張家口堡は、俗に堡子里とも呼ばれる、張家口市発祥の地だ。張家口堡は明の宣徳4(1429)年に建設されたもので、現在も478軒の住宅が残る。明代、清代に建築されたものとしては全国的に見ても保存状態の整ったとりでの一つだ。  

歴史書の記載によると、このとりでの北に東西の太平山が向かい合って「山口」(峠)となっていることから「張家口」の名が付いたという。張家口のとりでは長城の防御線である宣府鎮(現在の宣化県)の要塞で、難攻不落の歴史を持つ。蒙古の侵略に備えて建設されたこの城塞都市だが、その発展は漢族と蒙古族の貿易によるところが大きかった。張家口のとりでが建てられた時は、東門(永鎮門)と南門(承恩門)があるのみだった。草原に住む遊牧民族の騎兵による奇襲に備えるものだったからだ。その後、とりでの内外の人口増加に伴って、北の城壁に小北門が加えられた。軍事的配慮からこの門は小さく造られ、馬は入ることができなかった。明の隆慶5(1571)年、張家口は漢族と蒙古族による「茶馬互市」が開かれる場所となり、ここから張家口のとりでは軍事都市から商業都市へと発展方向を転換したのだった。  

民国初期、張家口は商業や貿易が最盛期を迎え、外国の商人が開いた店は44軒、「銭荘」(私営の金融機関)や「票号」(為替業を中心とした金融機関)は42軒あり、年間取引額は1億5000万両に達して、石家荘市に次ぐ「華北第2の貿易商業都市」と呼ばれるようになった。(劉世昭=写真 李明慧=文)