皆川 真裕子
私が中国を感じた初めての経験は、小学6年生の時に中国からきた転校生の文集からである。
彼女は容姿端麗で、もの静かで、話しかければ静かに笑顔を浮かべるような穏やかな女の子だった。中国から日本にきたばかりで、日本語がほとんど話せなかったから、話しかけられても笑顔を浮かべる他なかったのかもしれない。
日本語が話せないからといってクラスに馴染めないといったこともなく、十人にも満たなかったクラスの女子に彼女はすんなりと馴染んでいった。給食はみんなで一緒に食べ、休み時間はみんなで大縄をし、みんなで楽しい学校生活を送っていた。ただ授業は、日本語がまだ分からない彼女だけ、別の教室で日本語の授業をしていることがままあった。
6年生になると、大きな行事がたくさんある。その中の一つが連合運動会だ。区内の小学校全てが一つの競技場に集まり、競い合うのだ。種目は多々あり、高飛び、ハードル、1000メートル走、リレーなど多岐にわたる。みな自らのベストを更新出来るように、いい結果を残せるように、懸命に挑んでいた。しかし、区内の全ての小学校の6年生が参加するとなると、その中で入賞することは厳しく、私の小学校から何らかの種目で入賞したという人は誰もいなかった。入賞しなくても、懸命に頑張ればそれでいい、自分で納得出来る結果であったならばそれでいい、というモチベーションであった。
彼女が出場していたのは1000メートル走だった。1000メートル走は最も息切れする種目である。彼女は無事走りきり、クラスの仲間から、おつかれさまと暖かく迎えられ、彼女はそれに笑顔で応えていた。彼女の記録がどうであったかは全く覚えていないが、走りきったのは確かだった。
私が驚いたのは、小学校のアルバム文集での彼女の作文である。多くの生徒が楽しかった思い出、6年間の思い出を語る中、彼女の作文の題名は「連合運動会の成果」である。他にも修学旅行など楽しい思い出はあったはずだが、彼女が選んだ題材はこれだった。他の生徒で連合運動会を題材にしている生徒は誰もいなかった。最も衝撃を受けたのは、最後の一文だった。内容は、走り終えた後、友達がいろいろ声をかけてくれたが、学校のメンツを失ったみたいで、私は後ろめたい気持ちになった、というものだった。
衝撃だった。卒業文集とは、楽しかった思い出を書き連ねたり、友達に感謝の気持ちを述べたり、中学校への希望を書き連ねるものではなかったのか。後ろめたい気持ちがした思い出を綴っていたのは彼女一人だった。なにより、6年生になって転校してきた彼女が、学校のメンツを失ったと感じ後ろめたい気持ちになっていたのが衝撃だった。他にクラスで学校のメンツを意識して挑んでいた者ははたしていただろうか。みな、個々人が頑張って、出来るだけの記録が出せれば良い、敢闘すればいいと漠然と考えただけで連合運動会に臨んでいたと思う。しかし、彼女は、競技後、私たちのねぎらいの言葉があまり頭に入らないほど。後ろめたい気持ちを感じていたのだ。そして、その思い出を、小学校生活を通した一番の思い出として文集綴ったのである。
卒業して、彼女の作文を読んだとき、彼女と、彼女の故郷中国のことをおもった。きっと中国では、自分のためはもちろん、学校のためにも、高い誇りをもって、いかなるものに挑んできたのだろう。私たちのように、それぞれが頑張ればそれでいいといった温室のような、はたまた甘っちょろいような環境では過ごしてこなかったのだと思う。何事も負けてはならない、勝負の世界できっと彼女は生きてきたのだ。もしかしたら、良い記録を出せていない自分自身にねぎらいの言葉をかけてくる私たちを、また、良い記録を出せなくてもなんら恥じることなく笑顔でみんなの元に帰ってくる私たちを、彼女は不信に思ったかもしれない。中国は日本と違い、幼くても厳しい環境で闘わねばならないのだ、と強く感じた。
人民中国インターネット版 2015 年12月
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