境 晶子
2011年4月天津に赴任した。2011年3月11日の震災後から、数週間後のことでした。天津に赴任する前は、北海道で働いていましたが、生まれも育ちも福島であり、実家で1人生活している母、親戚、友人のことがとても気掛かりでした。しかし、新任であったことと母親の後押しから新天地で頑張ることを決心しました。
天津の職場ではほとんどが日本人でしたが、事務員、警備員さんは現地中国の方でした。赴任して間もない頃、中国でもたくさん日本の震災について報道がありました。私が福島出身と知ると、同僚は心配してくれましたが、ある事務員の方がそれ以上に心配してくれたことに驚きました。「母親は1人で大丈夫なの?」「近くに親戚や身よりはいるの?」「原発の場所からは離れているの?安全なの?」まるで家族のように心配してくれました。またある時は、部屋の大家さんが、同じように心配して声を掛けてくれました。「部屋が空いているし、もしお母さんが来ることができそうなら、ここに住んでもらったら?」この出来事があって、中国の人は相手のことを思いやり、優しいと思うようになりました。
日本では、「大丈夫でしたか?」「心配ですね。」と見舞いを伺いますが、それ以上聞くのは個人的なことを聞くので失礼ではないだろうか?どこまで聞いたら問題ないかなど躊躇して遠回しな質問をすることがあります。これは距離感を保つ日本の文化かもしれません。あるいは昔より人と人との関係が希薄化しているのかもしれません。実際、ご近所つき合いが減ってきています。福島県の田舎で育った私は、時にこのつき合い方が冷たいと思うことがありました。田舎ではご近所つき合いが当たり前で、お隣さんの家に遊びに行ったり、ごはんを作りすぎたらお裾分けに行ったり、そんなことが当たり前でした。
中国に住んでから、またそんなご近所つき合いが始まり、中国の人に対して親近感を持つようになりました。それからは沢山の友達ができました。週末に買い物やカラオケ、食事に行くようになりました。職場の人以外に、中国語の先生や日本語を勉強している学生さんと仲良くなりました。
しかし楽しい時間があっという間で1年が過ぎようとした頃、体調を崩したことがありました。仕事を休むことがあり、それを心配した職場の中国人の事務員さんが休日に漢方医がいる病院まで連れ添ってくれました。事務員さんの知り合いが病院関係の方で、手続きまで済ましてくれたおかげで、スムーズに診察も終わりました。身内でも直接の知り合いでもない私を心配し、気遣ってくれました。その時、「朋友的朋友,就是朋友。(友達の友達は、友達だよ。)」と言ってくれた言葉は今でも忘れません。その当時、簡単な中国語は話せましたが、この時を機にもっと中国語を勉強して相手を理解したいと思うようになりました。
帰国して私は今、大学院で中国語を勉強しています。将来は中国語を教える仕事をしたいと思っています。私が中国で経験したことで中国の人を好きになったように、同じように中国を好きになってくれる人が1人でも増えたらと思い、自分の経験を伝えていきたいです。
私は、中国の人のように、相手を思いやり、困っていたらすぐに手を差し伸べることができる人になりたい。もし、日本に来て困っている中国の人がいれば、力になりたいし、知り合いが困っていたら、「朋友的朋友,就是朋友。(友達の友達は、友達だよ。)」と言える人間でありたい。
人民中国インターネット版 2015 年12月
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