倉澤 正樹
日本と中国の友好的隣人関係を願い、相互理解の鍵としての戦争反省、及び日中関係の根源性を示す文化交流の歴史について語りたい。
2015年8月14日、安倍談話が発表された。日本近現代史を世界史の文脈に位置づけ直そうとする試み自体は頷けるが、「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」という重要な言葉が、一人称でなく三人称で語られたことや、日本人の将来世代の謝罪責任の消失を示唆する一言については、「これは日本側から言って良いことではなかろう」という不安を禁じ得なかった。
抗日戦争で憎むべき日本兵(日本鬼子)に家族を殺された中国大陸の人々。大東亜戦争で徴兵され、否応なく人を殺さざるを得なかった日本兵(そこには朝鮮半島や台湾出身者も含まれる)。重慶・ヒロシマにおける無辜の民の全く不条理な死。これらに対し、現在の我々は日本・中国などの国としての立場が先立ってしまい、一人間としての自然な気持ちから、人の苦しみを悼み、共感する心情を失ってしまってはいないか。日本は隣人中国を恐れ、防衛本能のため、過剰に攻撃的になっているようなところがある。中国も日本を軍国主義・ファシズムと断罪するような歴史認識を示し続ければ、日中友好も真摯な反省も遠ざかる。両国民における、軍国主義・ファシズム・戦争に対する具体的で客観的な認識の上に、人間としての共感を含む相互理解の道が開かれると考える。
一方で、昨今の隣人中国との関係も、悠久の交流史から見れば、一時的なさざ波に過ぎないとも言えよう。これは両国にとって希望たり得る歴史資源である。私は「日本」独自のものとされる国粋思想や古典文学の領域において、中国文化の影響の根深さを示す事例を列挙し、近年の勢い著しき日中異質論に対抗したい。
靖国神社の思想史を読み解くと、王朝の正統性を唱える儒教由来の大義名分論(君臣の別を強調)や華夷思想(中華と夷狄の別を強調)が不可欠の構成要素として溶け込んでいる。1644年に滅亡した正統なる明王朝を復興するため、夷狄たる清王朝に抵抗し、夢破れて1659年に長崎に亡命した朱舜水(1600~1682)は、水戸藩主徳川光圀の師となり、儒教的大義名分論に基づく日本史叙述を試みた『大日本史』の編纂において、大きな影響を与えた。幕末の水戸藩においては、西洋列強に対する脅威という時代環境の中で、儒教的大義名分論は天皇中心の国家神道と結びつき、尊王攘夷思想を謳う後期水戸学に発展した。1841年に開設された水戸藩校の弘道館では、「尊王攘夷」「神儒一致」のスローガンが掲げられ、孔子廟と鹿島神社が共に祭られていた。靖国神社境内の遊就館における皇国史観の語りや、尊王攘夷に殉ずる英霊顕彰の信仰は、現代の歴史学や平和主義の見地からは全く理解に苦しむが、その背後には中国由来の大義名分論・華夷思想の浮遊霊が浮かんでいるようである(以上、小島毅『靖国史観』2007、ちくま新書を参照)。大東亜共栄思想のスローガンの「八紘一宇」は、中国の史書を模倣して漢文で書かれた『日本書紀』の「掩八紘而為宇」に由来し、「八紘」の語は『淮南子』『列子』『晋書』などに見える。『古今和歌集』巻頭にて和歌の精髄を宣する仮名序は、『詩経』の序文を和歌の世界に換骨奪胎したものである。『徒然草』の章段中には、一見して他の章段とは明らかに異質と分かる、断言を多用した硬質な漢文調の章段が幾つか紛れ込んでいる。散文の達人兼好も、和文だけでは表現できない可能性を漢文に感じていたに違いない。
中国文化は日本の時代状況により、豊かな日本文化の素地を形成することもあれば、悩ましいことに中国侵略の具となることもあった。逆に言えば、平和的に文化を発展させるにせよ、戦争するにせよ、「日本」にとっては隣人「中国」が不可欠だったとも言える。君、日中は分かり合えないなどと言う勿れ。
人民中国インターネット版 2016年3月
|