沙面

 

広州市の西南角、珠江に面して、面積は広くないが独特な景観のエリアがある。中国内外から観光客が押し掛けるだけでなく、広州の人々も休日にたびたび訪れ、早茶(飲茶)をとったり、ぶらぶらしたり、静かで心地よい一日を過ごす。ここには洋風の古建築が立ち並び、ガジュマルやクスノキなどの古樹が滴りそうなほど青々と茂り、空気はきれいで、プチセレブな雰囲気に満ちている。 

旧市街に隣接するこの「西洋小城」は沙面と呼ばれる。宋代(960~1279年)から清代にかけて、この珠江の堆積物でできた砂州は、広州の対外通商の要路であり船舶が泊まる埠頭だった。18世紀、清政府が十三行に「夷館(外国人の中国における住居)」を建てると、沙面は外国商人を迎える要地の時代を徐々に終えていった。 

しかし、沙面が中国史の舞台から消えることはなかった。1856年、英仏連合軍が第2次アヘン戦争(アロー戦争)を引き起こすと、広州市民は侵略者に対する憤りから、十三行の外国商館を焼き払った。「商館と洋行を建て直す」という建前で、当時のイギリス、フランスは広東衙門(役所)に対して沙面を租界として開発するように迫り、不平等条約を締結した。こうして1861年より、沙面は西洋列強の中国侵略における新たな拠点の一つとなった。 

英仏の植民地主義者は沙面と陸地が接する場所に堀を造り、周囲に花崗岩を積み上げ、イギリス租界とフランス租界を区切り、船が沙面の水路近くで停泊することを禁止した。こうして、広州から離れた外国人居住地が形成された。この「孤島」で、イギリス、フランスは多くの特権を得て、政府機関と企業を大量に移入し、米国やポルトガル、ドイツ、日本などの国も次々と領事館を移転した。 

その期間、沙面には数々の中外文化交流の痕跡が残された。20カ国近くがここに洋行や教会、住宅を建設し、さまざまな様式の建築が時運に乗じて生まれた。現在、沙面は再び中外文化の融合と交流の場となっている。露徳聖母教堂(フランス・カトリック教会)では、礼拝に訪れる国内外の信徒が後を絶たない。時間帯によって、広東語や標準語以外にも、特別に英語の礼拝を行っている。このかつてフランス人居住者のみに開放されていたカトリック教会は、今では全ての人々に門を開いており、異なる国籍の人々が同じ信仰によってここに集っている。 

沙面では、中国と西洋の生活方式を互いに受け入れ、共存している。沙面の年配の人々は、食堂で2時間もかけて伝統的な飲茶をとる習慣があるが、若者はカフェに行き、軽快な音楽を聞きながら友人たちとおしゃべりするのが好きだ。川岸の沙面公園では、粤劇(地方劇)を聞いているお年寄りが日光浴を楽しみ、その隣のホワイトスワンホテルでは、若い夫婦が子供を連れて西洋式のビュッフェを堪能している。中外文化はここでしっくり溶け合っているのだ。

 

 

 

人民中国インターネット版