観音この地にとどまる | ||||
舟山1000以上の中に特殊な島がある。それは島のようで山であり、中国人の憧れの仏教の名山だ。島には寺が林立する。あるものは緑に続く小道の奥深く、生い茂る木立に隠れ、あるものは大海原に面した山の絶壁に立つ。島を歩けば、禅の情趣あふれる秘境と壮大に広がる見渡す限りの大海原という二つの世界をさすらうことができる。
舟山の朱家尖からフェリーで20分、私たちは普陀山島に到着した。普陀山は観音道場で、島の寺廟の多くは観音菩薩をまつっている。道場の形成については、唐代の中日仏教交流の歴史物語に遡らなければならない。南宋の仏教史学専門書である『佛祖統紀』の記載によれば、唐代の咸通年間(860〜874年)日本の僧侶の慧萼は嵯峨天皇の橘嘉智子皇后に託され、中国へ行き観音に願いをかけた。慧萼は仏教名山の五台山で荘厳な観音像を目にして、聖像を日本に安置することを申し出た。慧萼は許可を得て、観音像を背負って南下し、明州に到着して帰国の船に乗船しようとする。 しかし思いがけず不思議な出来事が発生する。慧萼が乗船しようとするその時、観音像が非常に重くなり、最終的に2人で担いで乗船した。船が普陀山の洋上にさしかかると大きな突風で怒涛のように波が荒くなった。海上にたくさんの蓮が現れ、船を包囲した。慧萼はこれは観音の「東に行かぬ」というお告げだと考え、付近の島に残すことに決めた。そして船が現在の普陀山の潮音洞口にたどり着くと、張という住民に観音を渡した。張氏は家を明け渡し、寺を建て聖像をまつった。ここから観音像は「不肯去観音」(行かず観音)という名を得て、像をまつる寺は「不肯去観音院」と呼ばれ、普陀山開山の寺院となった。普陀山の観音信仰の発祥だ。
不肯去観音が謎のように普陀山に現れて間もなくの事、記載によれば、多くの人が明州から船に乗って普陀山に向かい不肯去観音を参拝した。ところが、当時は海運が未発達だったため、船が波風をはねのけて島に到着することは簡単ではなかった。安全面の考慮から、明州の官吏は行政的手段を用いて観音像を陸に移動し、明州の開元寺にまつった。しばらくするとある立派な木を背負った僧が寺を訪れ、観音像をまねて彫りはじめ、彫り終えると密かに去っていった。このように、不肯去観音は五台山の1体と木彫りが1体、計2体になった。皆は、観音菩薩が島を離れたくないと考え、後に木彫りの観音像を普陀山に送った。これが不肯去観音の最後の記載だ。 今でも不肯去観音院は依然として海辺に立つが、違っているのは唐代風の建築の立派な寺院になったこと。当時、慧萼が上陸した潮音洞は依然として海水が満ちては引く。本堂にまつられる観音は蓮の上で結跏趺坐し、慈悲深く善良な顔立ちだ。当時慧萼が願いを託した観音はどんな様子だったか。2013年に中日の役者が共同で演じた映画『不肯去観音』で、私たちが見たこの観音は、唐代の光王李怡(後の宣宗)のために作り上げた護身用の観音宝像で、青みがかった緑色の秘色の磁器だ。浙江省一帯の越州窯は朝廷に献上する磁器で、秘色は唐宋期の中国青磁器の最盛期の作品だ。映画では秘色の磁器の観音が荘厳な姿で、手に蓮の花を持っている。観音像の真実について、舟山市仏教協会会長で普陀山仏教協会副会長の浄旻法師によれば、史書はこの像の特徴、材料と重量について、特に触れていないが、確実に言えるのは一人でも背負えることだという。
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