普陀山の前世と今生

 

普陀山の代表的な景観ー南海観音像。観音像は高さ18㍍、左手に法輪を持ち、右手は施無畏印を結び、迷いや悪を破り、畏れを除く

 

普陀山は如何に中国仏教の名山となったか。静かな隠秀講院で、浄旻法師は普陀山の発展の歴史を紹介する。「普陀」の二文字は大乗仏教の『華厳経』からきたもので、サンスクリット語の音訳で観音浄土を意味する。住民がいるごく普通の漁島だった普陀山は、不肯去観音院によって名声を広めていった。宋代になると不肯去観音院は昇格し、宝陀観音寺に改名した。島で唯一の寺だが、50数人の出家者がいる。出家者たちは数頭の牛で畑を耕し、自給自足の生活を送った。平和な静けさは明代の初年に破られ、ポルトガルや日本の海賊が舟山を襲った。朝廷も正面から賊と対決せず、消極的に防衛し、城に立てこもって他は焦土化する政策を採用し、東南沿海の島民を強制的に陸へ移住させた。その海禁政策で、普陀山の建築も大量に破損したが、幸い元代に建立した多宝塔のみが難を逃れた。蘇州太湖の石を積み上げた塔は現在まで原型をとどめ、普陀山に現存する最古の建築の一つとなっている。

普陀山の興隆は明代の万歴(1573〜1619年)に始まる、神宗皇帝の母の李太后は敬虔な仏教徒で、息子が皇帝になったのは仏の加護と考え、皇帝に普陀山で多くの功徳をつませた。神宗皇帝は普陀山の再建を命じ、朝廷から国庫金を携えた監督官を現地に派遣し、管理にあたらせた。このプロジェクトでは普陀山三大寺院の中の普済禅寺と法雨寺が再建され、普陀山の規模は後に200余所の寺院を持つほどの壮大さの頂点に至っている。

普済禅寺は普陀山最大の寺だ。本堂にあたる大円通殿は観音菩薩がまつられており、一年を通じて香が絶えることはない。梅雨に入ったばかりの舟山は多少湿気がありムシムシする。普済禅寺の緑生い茂る木々が本堂を覆い、しばし人々を暑さから解放して晴れ晴れと爽快にする。境内には全国各地からの客が熱心に参拝していて人が多いものの、秩序が整然としている。普陀山では一元を払うと3本の香が渡される。人々は香に火をつけてから両手で持って眉の高さまで上げて、東西南北のそれぞれの方向に拝礼し、香炉に香を立てる。上海から来た徐慧さん(23)は普陀山に来るのも3回目だ。今回は両親と車を運転して舟山本島まで来て、それから船で普陀山まで来た。「ここに来ると心が落ち着いて和やかになります。いつも香を供えて幸福と家族の安全を祈ります」。彼女はまた普済禅寺が外部に開放する精進料理を推薦する。「1人10元で値段も低く抑えられ質もいいです。お寺で精進料理を食べると、体のストレスも軽減して気持ちもリラックスして、平静を取りもどします」

普済禅寺の住持、道慈大和尚は中国仏教協会の副会長で、普陀山仏教協会の会長だ。すでに40年近く寺院の発展の過程を見てきた。「私は1979年に出家しましたが、その時には電気もなく、床の上に寝て、自分でまきを割って、火を起こしてご飯を作りました。現在普陀山には50数カ所の寺院があり、1200人の僧侶がいますが、経済、人事、寺院修改築計画の三つの統一管理モデルを実施しています」。観音文化で衆生を救済するため、普済禅寺は1年に40数日の無料入場日があり、重要な祝日や観音菩薩の誕生日も含まれている。

 

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