東渡の途中「蓬莱仙島」

 

上船跳村で徐福文化を体感する岱山県岱東小学校の学生。民間の物語によれば徐福は岱山を離れるときこの地で船に飛び移り、東渡の道についた

 

東渡とは東に向かって船で渡ることだ。中国の歴史家の司馬遷は、『史記』で初めに徐福が仙人を訪ねる物語を記載している。それによると、秦代(前221年~前206年)徐福方士は秦の始皇帝に、海に蓬莱、方丈、瀛洲という三神山があって仙人が住んでいることを報告している。始皇帝は徐福を派遣し、数千の童男、童女を連れ海に出て、三神山で不老長寿の薬を探す。徐福は出航してから、どの方角へ行ったのか。史書には明確な記載もなく、ただ「平原広沢」に到着だとある。多くの中日の学者は、「平原広沢」は日本と考えている。日本に到着する前、徐福は仙人を求めどのような道をたどったのであろうか。疑問に思った私たちは、三神山の蓬莱を訪れた。つまり今日の舟山市岱山県を探求した。

東沙は岱山北部の古い漁村で、舟山群島で歴史的に有名な漁港でもある。18世紀の初め、ここの漁業は非常に繁栄していて、漁期になるたび、各地から漁船が集まり、盛んに交易が行われていた。徐福が岱山に上陸した時、東沙の山渚頭から上陸したと伝えられる。清代光緒24年(1898年)、岱山の人々は「海天一覧亭」を建造し、対句を著して石碑に刻み、徐福の岱山の上陸を記念した。私達がここを訪れたその日、ちょうど雨に降られ、全てが雨に濡れ、島は幾層もの霧に覆われ、仙境のようであった。案内してもらい、私たちは海辺の涼亭を訪れたが、残念なことにこの場所はもとの所ではなく、歴史的な原因から破壊され、石碑も存在していない。現存の涼亭は後に東沙の人々が再度建造したものだ。しかし、現地の人はここが徐福が上陸し、中継した土地であることを信じて、遠くない坂道に自発的に徐福の碑を建てた。碑の隣には航海への旅立ちで、始皇帝やふるさとの人々と別れる場面、そして、船隊が万難を経て蓬莱仙島を訪ねる場面が彫刻された二つのレリーフが立てられている。

徐福が岱山に着いたか否かについて、岱山の徐福研究会の金昌専秘書長(55)は、岱山は唐代(618~907年)から「蓬莱郷」と呼ばれ、清代(1616〜1911年)に至っている。岱山および舟山、寧波(かつて舟山を管轄)らの郷土資料には、徐福が岱山を通ったことが明確に記載されている。齊国人の徐福は琅琊山で秦始皇帝と会った。主な活動中心は山東、江蘇一帯で、船隊はおそらく中国北方の沿岸の港から出発した。岱山は海水の流れの交わる所で、地理的な航海路線から考察して、季節風と海流の影響を受け、北路から来た徐福が東沙から上陸した確率が比較的大きい。徐福は島の環境を考察した後、船を集めて黒潮の流れに乗って、漂着した所が日本まで至った。上陸地とその後の活動は推測になるが、岱山が徐福東渡の中継地点だったことは確かだ。

 

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