200余年前の救助が結んだ友好

 

かつて救出した日本の船員を介護した桃花島白雀寺、現在は改築で一新

 

桃花島は春に満開となる桃の花により名を得たものだと考えていたが、島に来て分かったことは、島の名は現地で桃の花の模様のついた石を産出していることに由来している。中国人にとって、桃花島は武侠小説家の金庸氏が描く俗世の外の桃源郷で夢の世界だ。あまり知られていないが、ここには中日交流史上の友好美談が伝えられている。

1752年日本の気仙沼市の一艘の商船「春日丸」が航行中に暴風雨に遭遇して、13人の船員が海上を4カ月漂流した。水や物資が尽きるかというその時、前方に小さな島が見えて、船員たちは力を振り絞って助けを求めた。島の漁民たちはそれを聞きつけると素早く商船に接近し、船員を救出し陸におろした。近くの村民も知らせを聞き、食物と薬品を持って駆け付けた。船員たちは帰国後も桃花島の住民たちの救命の恩を忘れず、1993年、「春日丸」号の船頭伝兵衛の8代目の佐藤亮輔氏が桃花島に来て、恩人の後代に感謝の気持ちを表した。200余年語り伝わる物語は気仙沼市と舟山市を1995年に友好都市として結びつけた。

王芳兒さん(38)は桃花島の出身で1997年舟山市が気仙沼市に派遣した第一次水産研修生だ。彼女の目には佐藤さんは優しく親しみやすい老人で、仕事にも生活にも何かと面倒をみてくれた。佐藤さんは研修生たちに2階建ての小さな家を新築した。部屋は中国式の内装で、電化製品が全て揃っている。皆はよく佐藤さんに招かれてお宅に伺い、春節には餃子を作り、中国式の習慣に習った赤い封筒のおとし玉までもらった。「佐藤さんのご一家は親戚のように接してくれました」と思い出す。研修の1年後、王さんが桃花島に帰って民宿をオープンし、佐藤さんと手紙で連絡を継続した。後に佐藤さんはわざわざ王さんを訪ねて家まで会いに来てくれた。

 舟山と気仙沼の民間交流の熱が高まってきた頃、突然東日本大震災が発生し、両市の往来が一時中断された。舟山市の外事サービスセンターの蒲舒兒さんは当時を思い出し、「地震発生後、皆焦って、すぐに気仙沼市と連絡をとりました。後でやっと現地の市民と電話がつながって、街がほぼ壊滅したが、幸い死傷者はひどくはなかったことを知り、やっと胸につかえていたものがとれて、ホッとしました」。災害が発生してから舟山市民は気仙沼市の再建に110万元(1億7000万円)近くの義援金を贈った。両市がいつ往来を回復できるか分からないが、人々は海を挟んで互いを思いやっている。素晴らしいふるさと気仙沼市の再建と、両市の友情の春の再来を願ってやまない。

 

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