海口 
海風と騎楼の街の物語

南洋からやって来た海風

朝8時、海口市の長堤路にある鐘楼の鐘の音が清々しく響くと、道行く人や車が増えてにぎやかになり、街全体も眠りから覚めた。

 1929年に建てられたれんが色の鐘楼は海口を代表する建築物。昔は港の運輸事業の忙しいタイマーだった。その後、海口がこの100年で発展するにつれて、鐘楼の姿や位置も何度か変わり、87年にこの場所に再建された

中国で最も新しい省都である海口市は、すでに千年近い歴史を有している。歴史の時計の針を戻せば、この瓊州海峡の南岸はかつて潮の流れによる土砂の堆積でできた浜辺で、中原から南下した人々が海南に入る重要な渡し場でもあった。北宋時代に埠頭ができ、明代に所城(古い城鎮の名前)が建てられたが、清代後期まで海口は瓊山県(古い地名、およそ現在の海口市を範囲とする)に属する小さな街に過ぎなかった。

1858年、海口は列強に開放する貿易港の一つとされた。そのときから海上国際貿易の中継地点として、海口の経済と貿易が徐々に栄えたことにより、海南の人々も外の世界へ出ていくようになった。当時、南洋(東南アジア諸地域を指す)の国々は大部分が西側諸国の植民地で、農園の開墾にしろ鉱物の採掘にしろ、大量の労働者を必要とした。比較的高額な賃金および地理的に近いこともあって、多数の海南人が海口に集まり、新しい生活を切り開くためにここから旅立ち、南洋へ渡るブームが一時期巻き起こった。歴史的な統計によると、1876年から98年までの23年間、客船に乗って南洋へ渡った海南人だけで24万4700人に達し、年平均1万人余りいた。甲午戦争(1894〜95年)の後、この数字は2万4000人まで増えたこともあった。こうして海を越えた海南人は「瓊僑」と呼ばれ、次々と異国の地に根を張るようになった。  

20世紀初頭の海口は、各地から広く情報が集まる開放的な街だった。特に1926年に海口市が設置されてからは、故郷を離れていた人々に門戸を開いたため、一時期、瓊僑の人々が続々と海口に戻って投資した。彼らはコーヒーや「老爸茶(お父さんの茶話会)」といった南洋の風俗習慣を持ち帰ったと同時に、「騎楼」という東西の文化が交わった様式の建築物も持ち込んだ。騎楼は、建物が歩道をまたぐように建てられているためにこの名前が付けられた。2階から4階建ての木骨れんが造で、商店としても住居としても利用できる。軒下の高く広い通路は、太陽や雨を遮ることができ、高温で雨量が多い同地の夏の気候に最適な造りとなっている。そのため、1920年代、海口の長堤路や中山路、得勝沙、博愛路などの道の両側では、数年の短い間に800棟余りの騎楼が建てられた。一時期、騎楼には商人がどっと集まり、海口の重要な商業の中心となった。地元の人々はそこを南洋街と呼んだ。海口に昔から暮らす人々にとっての一時代の記憶である。

 

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