儋州
古都に伝わる蘇東坡の恩恵

流刑の地

海南島西北部に位置する儋州は、古くは儋耳と呼ばれた。紀元前110年、漢の武帝(在位紀元前141年~紀元前87年)が海南に儋耳と珠崖の二郡を設置したときから数えて、現在まで2000年以上の歴史を持つ。しかし行政区画に組み込まれてから、儋州は海南全体と合わせて、歴代のほとんどの文書において環境が劣悪で瘴癘の気が立ち込める場所と記されており、未開、危険、死というのがほぼ当時の同地の代名詞となっていた。さらに、教化されておらず、中原という文明の中心から遠く離れた「天涯海角(天地の果て)」と歴代の封建朝廷に見なされたため、海南は歴史上、「流刑・左遷の地」の役割を長い間担っていた。

 東坡書院にある蘇東坡の銅像

左遷は中国古代の封建社会において君主が罪のある臣下を罰する手段として昔から行われていた。そして遠く南海まで左遷することは、史料によると唐代に始まった。「一去一万里,千之千不還。天涯在何処,生度鬼門関(万里の道をいったん行けば、千人のうち千人が帰らない。天涯はどこにあるのか。生きたままあの世の門をくぐるようだ)」。この悲愴感あふれる名句は、唐代の宰相、李徳裕が海南に左遷されたときに残したものだ。宋代のころ、海南への左遷は歴史上のピークに達した。宋代は党争が激しかったが、文人を殺さないという先祖の教えがあったため、党争で負けた官僚は罰として左遷されることが多く、さらに官位が高く声望が高いほどより遠くの場所に左遷された。当時の中国の版図において、最も遠い場所は海南だった。そのため、海南に左遷されることは宋代の官僚にとって最も厳しい罰だった。史料によると、宋代に海南に左遷された官僚は合計20人余りおり、これらの人々は皆、当時の政治・文化の分野における重要人物だった。中でも最も有名なのは大文豪の蘇軾である。

 載酒堂に復元された蘇東坡の講義の様子。中央に座っているのが蘇東坡で、左側が友人の黎子雲、後ろは蘇東坡の息子の蘇過

蘇軾(1037~1101年)は、字を子瞻、号を東坡居士といって、四川眉山の出身だ。父の蘇洵、弟の蘇轍と共に「三蘇」と称される。蘇東坡は幼いころから経史に精通し、1057年に進士となり、欧陽修に大いに認められて、都で広く名前を知られた。しかし、北宋の激しい変法運動と新旧党争という政治の渦中で、何度も左遷され、黄州(現在の湖北省黄岡市)や恵州(現在の広東省恵州市)に流された。97年、60歳の高齢となった蘇東坡は儋州への左遷という新たな命令を受けた。出発の前、彼は次のような遺言まで残した。「今、海南に行ったら、まずは棺を作り、次に墓を作り、死んだらそこに葬られるだろう」

 

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