儋州
古都に伝わる蘇東坡の恩恵

 

海南が本当の故郷に

儋州に到着した蘇東坡は、環境に慣れないことに加えて、晩年になってまた左遷されたというショックから非常に落ち込んだ気持ちになっていた。「嶺南の気候はじめじめしていて、地面から蒸発する水気でむしむししているが、海南はそれが特にひどい。夏と秋の変わり目に腐らないものはない。人間も金属や石ではないのだから、どれほど耐えられるだろうか?」しかし、不屈の精神と達観した人生哲学を持った蘇東坡は、人生の楽しみを失うことはなかった。同地の県官の張中は蘇東坡の才能に敬服しており、個人的に彼を自宅横の官舎に住まわせてご馳走を出してもてなした。だがそれも長くは続かず、うわさが流れて、朝廷が派遣した役人に見つかり、蘇東坡は官舎から追い出されてしまった。

 

同地の人々、特に貧しい読書人の師弟の協力の下で、蘇東坡は街の南に土地を得た。皆が次々と彼を手伝いに来て家を建ててくれた。その粗末な家には3部屋しかなく、家の後ろにはビンロウの林があったため、蘇東坡はその新居を「檳榔庵」と名付けた。それから人々は、編み笠をかぶり、すきやくわを手にして山辺の畑で耕作する農夫の姿を頻繁に目にするようになった。蘇東坡は地元のリー(黎)族の人々と親しくなり、時には早朝にリー族の猟師がやって来てシカの肉をくれることもあった。蘇東坡は学堂を開き、中原の文化を広めた。学生は皆、授業料を納める必要はなく、酒さえ持ってくればよかったので、その学堂は「載酒堂」と名付けられた。儋州で過ごした3年間、到着したころの悲愴感や寂寥感はなくなり、逆に楽しさや自由さを得て、そこで蘇東坡は200編以上の詩文を書いた。1100年に彼は北へ帰ることを許された。儋州を離れるとき、「我本儋耳人,寄生西蜀州。(私はもともと儋耳の人で、西蜀州に仮住まいしていた)」と詠んでその地に対する深い思い入れを表した。だが残念なことに、帰路の途中で病に倒れ、江蘇省の常州で亡くなった。

 正殿横の廊下には蘇東坡の墨跡が数多く展示されている

蘇東坡が海南に滞在した3年間は海南に深い影響を与えたと言うことができる。彼の影響により、儋州から海南全体において、本を読み文章を学ぶ気風が徐々に育まれた。蘇東坡が去った翌年、彼の学生だった姜唐佐が海南の歴史上で初めて挙人になった。そして、蘇東坡が去った9年目には、儋州人の符確が進士となり、海南には進士がいないというばつが悪い歴史に終止符を打った。それで、蘇東坡の海南文化に対する啓蒙の働きは、長い間ずっと伝えられ、たたえられてきた。現在、蘇東坡が講義を行い交友関係を結んだ載酒堂は何度か改修され、東坡書院と名前を変え、各地の人々が敬慕する文化の聖地となっている。

 

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