多くの偉人を育てた岳麓書院

 

 「千年の学府」である岳麓書院は湖南省の文化的シンボル(写真提供・湖南省党委員会宣伝部)

千年の学府

とうとうと流れる湘江の西岸、古木がそびえる岳麓山の麓。生い茂る樹木の枝がつくる木陰に、素朴で上品な古い邸宅がある。ここは山水が引き立て合う美しさと、白い壁と黒い瓦が醸し出す落ち着きを感じられる場所。一つ一つの庭園、建物、石碑、ひいてはれんがの一つに至るまで、味わい深い文化の息吹を含んでいるようだ。 ここは中国の「四大書院」の一つに数えられる岳麓書院。創建は北宋初期までさかのぼり、これまで千年を超える歴史がある。戦火が絶えなかった唐末・五代の時期、文化・教育事業はひどい打撃を受けた。北宋が全国を統一し、文化・教育を振興したため、民間の書院は盛んに発展した。一方、そのころ中国文化の中心は徐々に南下しており、儒教・仏教・道教の文化が総合的に発展していた。このような背景の下、北宋の開宝9(976)年、当時の潭州(長沙の古い名称)の太守だった朱洞が僧侶の興した学校を書院として拡張した。こうして岳麓書院が誕生し、当時、ある程度の規模を持つ文化・教育の基地となった。

岳麓書院が南宋時代に徐々に絶頂期に向かったことは、張栻と朱熹という2人の有名な理学の大家と切っても切り離せない。張栻(1133~80年)は南宋初期の有名な学者兼教育家だ。彼が岳麓書院を主宰している間に、一連の重要な改革が行われた。科挙の試験対策を教育の目的とすることに反対し、「伝道済民(聖賢の道を説き、人々を救済する)」ができる人材の育成を主張したのだ。彼が心血を注いだことにより、岳麓書院は徐々に全国でも評判の理学の中心地、湖湘学派の学術基地となっていった。 張栻の学問上の友人だった朱熹(1130~1200年)は理学を集大成した人物で、「朱子」の尊称で呼ばれる。南宋の乾道3(1167年)年の秋、朱熹は遠路はるばる福建から長沙へとやって来て、岳麓書院で張栻と語り合い、『中庸』の意味について討論した。これが歴史上に有名な「朱張会講」である。当時、朱熹に従っていた范伯崇によると、「3日間かかっても意見が合わなかった」そうだ。朱熹と張栻の2人の名声は遠くまで及び、その講義を聞こうと大勢が駆け付け、岳麓書院の門前は「千人以上が集まり、車を引く馬が多くて池の水が飲み干されるほど」という状況になった。この講義は岳麓書院の自由な学問の雰囲気をつくり、また宋代理学と中国古代哲学の発展を後押しした。まさに中国古代文化史上の盛事だったと言えるだろう。

 岳麓書院にある「朱張会講」の塑像。今でも朱熹と張栻という2人の偉大な儒者の息遣いが伝わってきて、自然と畏敬の念が湧いてくる

 

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