長沙に残る青年毛沢東の足跡

 

青年毛沢東が第一師範で教師や同級生と一緒に学び、時局について討論している様子を再現した塑像。左から毛沢東、黎錦熙、楊昌済、蔡和森、蕭子升

 

優秀な同級生たちと

旧中国の時局が波乱含みだった時期、優れた学生を多数輩出した学校といえば、湖南第一師範学校だ。同校の前身は南宋時代に張栻が創立した城南書院で、1903年に湖南師範館となり、校舎は日本の青山師範学校(今の東京学芸大学)の建築様式をまねて建てられた。

当時そこには、毛沢東、蔡和森、何叔衡、任弼時、李維漢、李達、田漢、楊昌済といった人々が集まっていた。彼らより前に同校の門をくぐった人物に陳天華や黄興などがいる。星のように輝いていた時代であり、「近代中国の歴史の半分は湖南人によって書かれた」といわれるほどだ。

13年の春、20歳の毛沢東はトップの成績で5年制の第四師範学校に入学した。翌年、第四師範が第一師範と合併されたのに伴って、彼は第一師範にやって来た。同校の毛沢東に対する影響は間違いなく絶大だった。彼はここでしっかりとした学問の基礎を打ち立て、徐々に自分の思考方法と政治的見解を形成し、同時に優秀な教師や意気投合できる友人と知り合った。

第一師範において、毛沢東に最も大きな影響を与えた教師は楊昌済だ。楊昌済は修身の講義のとき、学生に「気高い理想を持つ」ように求め、彼らが社会に役立つ公明正大な人になるように激励したことは、青年毛沢東に絶大な影響を及ぼした。同校在籍中、毛沢東は合計160元ほど費やしたが、およそ3分の1を新聞・雑誌の定期購読と書籍購入に使った。新聞は生きた歴史であり、それを読めばたくさんの知識を吸収できると毛沢東は述べている。

彼の周りにはだんだんと意気投合できる友人が集まった。彼らは一緒に湖南を「遊学」し、農村に深く入って民情を調査した。休みのときには、岳麓山や橘子洲など名所に集まって世の中を論じ、「指点江山、激揚文字(天下のことを論評し、文章で品定めをする)」ということをしていた。彼らは革命団体「新民学会」をつくり、その中の多数のメンバーが後に中国革命事業において「中流の砥柱(大黒柱)」となった。

毛沢東は正式に大学に通ったことはなく、留学に行ったこともなかった。後年、彼は第一師範での日々を振り返ったとき、次のように語った。「私が一番長く勉強した場所は湖南第一師範です。私の知識や学問はそこで基礎がつくられました。第一師範はとても良い学校です」

 

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湖南第一師範学院 (旧キャンパス)

所在地/長沙市天心区書院路356号

交通/路線バス1番、122番、134番などで「第一師範」停留所下車すぐ

電話/(0731)88228210

時間/8:30~17:30

料金/無料

 

 

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