第5回 シンガポール 今に残る源崇美

2019-09-23 16:24:44

文・写真=須賀努

  イギリスから来た開拓者、ラッフルズがこの地に上陸したのは、ちょうど今から200年前の1819年。中継貿易基地として栄えてきたシンガポールのその後の発展はすさまじい。その貿易品の中に茶があったのは当然であり、華人の大茶商がいたのではないか、という勝手な推測で、数年ぶりにシンガポール、チャイナタウンを訪ねてみた。

  だが、往時は数十もあった茶行もその多くが既に姿を消しており、茶商公会も事務所を無く、2015年に刊行された『新加坡茶商公会史略』にわずかに手掛かりが残されていた。チャイナタウンの大型商業ビルには数軒の茶行が存在しているはずだったが、その多くが固くドアを閉めており、隅の方にようやく1軒の茶行を発見した。

 

源崇美 現在の店舗

  源崇美、そこで3代目の顔明福さんから、詳しく話を聞くことができた。実はこの茶行の名前が、前回までご紹介してきたミャンマーの張源美とどこか似ているため、関連があるのではないかと思って聞きに入ったのだが、その推測は見事に外れていた。実はここは1920年に、友人3人で始めた茶行で、源峰、崇泰、裕美の各商号の1文字を取って名付けられたという。

 

顔裕美の名を付けた茶缶

初代の顔恵芸氏は福建省安渓紫泥郷の出身で、25歳の時に茶栽培を開始、自ら製茶して、潮州やアモイに売りに行ったという。その時の商号が「裕美」であり、崇泰の林沙渓氏、源峰の顔受足氏と知り合い、台湾まで茶を売りに行った。その後、中国国内の治安悪化により、シンガポールで茶行を開こうと決議して、1920年に開業した(なぜシンガポールを選んだかは不明)。だが、商売はうまくいかず、1年で林氏が撤退、1928年の新嘉坡茶商公会の設立には参加したものの、商売が好転せず、1930年には顔受足氏もこの地を去っていった。

ちょうどこの時期は1929年にアメリカで端を発した世界恐慌があり、各国経済が非常に厳しい状態に陥っていたときである。それでも恵芸氏は茶業を諦めなかった。孫の明福氏によれば、「祖父は算命(占い)の結果、茶業を続けることにした、と聞いている」という。如何にも華僑的な逸話だ。

そしてその後の努力が実を結び、茶業は軌道に乗り、ついにはかなりの量を捌く貿易商となり、ベトナム、タイ、マレーシアなど東南アジア各地に茶葉を輸出し始めた。だが第2次大戦がはじまり、シンガポールに日本軍が侵攻、茶商公会の記録でも「1941-46年の活動は空白」になっている。華人受難の時代であり、茶業は完全に止まってしまった。

因みに源崇美は茶商公会の活動には積極的に参加しており、恵芸氏は公会のトップを2度務めるほどで、業界のリーダー的な役割を担っていた。その息子2代目の輝宗氏は長らく、公会の財務担当に名を連ねており、1969年から10年に渡り、公会トップを務めている。まさに一貫して安渓出身者で占められているシンガポール茶業界にあって、源崇美はそのリーダー的な存在であったことが分かる。

 

全盛期の広告

1950年代、経済回復基調に合わせて、茶業も上向きになった。新中国成立後には、福建に残っていた家族も全てシンガポールに移住するまでになった。1965年にマラヤ連邦から切り離され、シンガポールは独立した。当時シンガポールの経済力は今のように高いレベルにはなく、多少の混乱はあった。それでも茶業にとっては70年代ぐらいまでが黄金期だったと、顔明福氏は語る。

 

初代 顔恵芸氏

  源崇美も初代の恵芸氏から2代目の輝宗氏に経営がバトンタッチされて、水仙や鉄観音茶など福建茶を中心に商売を広げていく。当時は茶葉輸入後、自らブレンドして炭焙煎するなど、全て手作業で行っており、最盛期は茶工場を含めて従業員は50-60人もいたという。だが、80年代以降シンガポール人の西洋化が顕著になり、中国的な茶が敬遠されるなど、逆風が吹いてくる。中国茶も健康志向のプーアル茶などが好まれるなど、扱う茶も変化している。 

明福氏より、1972年に2代目輝宗氏が書き残した冊子を頂いた。その中には「1952年にインドネシアが中国茶の輸入を禁止、そして1965年にマレーシアと分離したことにより、シンガポール茶業界は2つの大きな市場を失った。また若者がコーラーやコーヒーを好んで飲む風潮が現れ、中国茶が敬遠されていることにより、今後の茶業界はかなりの危機に陥る」と予測しているが、まさにその通りになってしまったと言える。

 

3代目 顔明福氏

1994年からは3代目の顔明林氏が家業を継ぎ、2002年には明福氏が引き継いだ源崇美は、その規模を縮小して、今は従業員もほとんどいない状況になっていた。これは源崇美だけの問題ではなく、同じビルに入居している他の老舗茶商の扉は固く閉じられており、話しを聞くことさえできなくなったしまったところが多い。

 

扉が閉まる老舗茶荘

「昔商売で儲けた老舗茶商の末裔は高学歴、海外留学組も多く、彼らが今、率先して儲からない茶業に従事するインセンティブはまるでない」という話を聞いたが、まさに残念ながら、シンガポール茶業の今、そして将来を象徴する言葉となっている。

 

 

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