第6回 シンガポール 茶商に留まらなかった林金泰の林慶年

2019-10-18 08:43:14

文・写真=須賀努

前回シンガポールに残る老舗、源崇美を紹介したが、シンガポール茶業史を語る上では、林金泰を忘れてはならない、と何人もの茶業者に言われた。特にそのオーナーの林慶年は、間違いなく史上に名を遺す人物だった。だが、その有名茶荘も遥か昔にその名前が消えており、既に忘れ去られている。今回は今や全くその名を見ることができず、訪ねることも叶わない茶商の歴史を振り返る。

林慶年とは、どんな人物だろうか。記録によれば、彼は単なる茶商ではなく、政治家でもあり、役人でもあり、実業家、社会貢献にも熱心など、多彩な顔を持っていた。やはり福建省安渓の出身で、1893年安渓羅岩で生まれ、福建で教育を受けた後、何と北京大学で学び、1924年に卒業している。この当時、福建の茶商出身者が北京大学で学ぶのは極めて稀ではなかっただろうか。

林家の茶業は当時子女を北京大学に行かせるほど隆盛だったということだろう。林慶年の曽祖父、林宏徳が1850年代に故郷の福建省安渓で林瑞泰茶荘を設立し、ちょうど茶葉の海外輸出が始まる時期に安渓茶を東南アジアに送り出していた。清末民初には、その孫に当たる林国書が厦門を拠点にかなり手広く茶貿易を行っていた、と記録にはある。

その後叔父の林詩国が1918年に林金泰を設立して、引き続き東南アジアを舞台に茶葉の輸出をしていたが、代理店に問題が発生したことにより、北京大学を卒業したばかりの林慶年が派遣され、東南アジア市場の開拓に乗り出した。1924年自らクアラルプールに林金泰を設立し、翌年にはシンガポールにも進出して、こちらを本店として活動した。

 

林慶年と林詩国

安渓茶ばかりではなく武夷茶なども扱い、その規模はかなり拡大する。1936年には叔父が亡くなり、林慶年が事業を引き継ぐ。当時シンガポール・マレーシアにおいては、「金泰茶」と言えば「福建茶」の代表銘柄であり、茶館では店員が客に「六堡茶にしますか? それとも金泰茶?」と聞くほど、有名であったと言われている。

 

林金泰の商標(『新嘉坡茶商公会史略』より)

 

林金泰の広告(『新嘉坡茶商公会史略』より)

また同時に華僑の祖国への送金業務にも参入し、その最大手にもなっている。このビジネスはリスクが高く、1日で多額の損失を出したこともあったが、慶年の高い信用度により、損失を取り戻したとの話もある。彼はその後華商銀行の経営にもかかわるなど、金融界でも有名になっていく。

福建会館の教育主任として、華人子女の華語教育普及にも尽力している。華僑学校、南洋大学などの設立にも貢献している。この地域ですでにゴム事業などで成功を収めていた陳嘉庚が廈門大学や集美大学など、故郷福建に多額を投じて学校を設立したのと対照的に、林慶年はシンガポール・マレーシアの華人向けの社会貢献に精力的に取り組んでいる。

1936年、南京の国民党により組織された中国国民大会の星馬華人代表に選出され、政治の世界にも参加していく。これは商売上の必要性から代表となったのか、それともそのような野心があったのかは分からない。日本軍が侵攻する直前、林はシンガポールを脱出して、重慶の国民政府に参加し、その後国民党に入党する。

茶業公会でも1928年の設立時より名簿に名があり、1930年には若年にも拘らず会長職に就き、その後も1968年に亡くなるまで、長年に渡って会長を務めている。またシンガポール中華商会の会長にまで昇り詰めており、茶業界代表として、華人の中でその影響力を存分に発揮したものと思われる。

絶大な栄華を誇った林慶年の時代が終わると、茶荘は息子の林文洞に引き継がれたが、1980年代終わりには茶商公会会員名簿から林金泰の名は消えており、文洞もほどなく亡くなったと聞く。茶業が儲かる時代は過ぎ去り、その一族ももっと儲かるビジネスへの転換を行い、また海外への留学、移住などで、シンガポールからその姿は消えている。

林慶年の子孫に話を聞こうと、シンガポール、クアラルンプールなどの茶商にその消息を聞きまくったが、誰一人それを知る者はおらず、福建茶の代表ブランドであった金泰茶を知る者は、今や高齢者だけになってしまった。ただ、「10年ぐらい前に、金泰茶の老茶を買って欲しいとの依頼があった」とか、「20年前に林家から、茶荘関連一式の売買を打診された」と話す茶業者がいるくらいだ。

 

林慶年に関する英文研究

林慶年は、これまで訪ねてきた多くの華人茶商とは異なり、北京大学卒業の秀才であり、茶業のみならず、実業家としても成功し、更にそれに留まらず政治的な活動にも取り組んだ、華人社会のリーダー的な存在であった。ゴムや砂糖で大成功した華人は何人も見てきたが、正直「こんな人物が茶業界にいたのか」と驚かされる。シンガポール国立図書館へ出向けば、彼に関する研究資料を探すことも容易ではあるが、子孫に話を聞くこともできず、その息遣いが聞こえてこないのは残念でならない。

 

シンガポール図書館

 

 

 

 

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