目からウロコ(豁然开朗)

2019-09-11 09:12:30

=福井ゆり子 翻訳/編集=銭海澎

 

先日旅行した際、おみやげ物屋さんで、魚のウロコでできたアクセサリーが売られているのを見つけた。半透明で、さざ波のような模様があり、それが花びらに見立てられた可憐な花のアクセサリー。魚のウロコといえば厄介なだけの不用品としか思っていなかったのに、素敵なアクセサリーに変身するなんて、まさに「目からウロコ」だわ、と思ったものだった。

前些天在旅行途中,我在礼品店发现了用鱼鳞做的装饰品。那是一个半透明的,形似花瓣的可爱饰品,上面还有水波纹。说起鱼鳞,通常只会联想到是多余无用的东西,能够变身为精美的饰品,真可谓“眼里出鱼鳞(大开眼界、豁然开朗)”。

 

ところで、この「目からウロコ」、正式には「目からウロコが落ちる」という言葉で、多くの慣用句がそうであるように、これもまた中国由来の故事成語なんだろうと思っていたら、なんと聖書の中の言葉であるという。新約聖書・使徒行伝第9章の「サウロの目から鱗のようなものが落ちて、再び見えるようになった」という記述に由来するものだそうだ。

不过「目からウロコ(眼里出鱼鳞)这个惯用语的标准说法是「目からウロコが落ちる(从眼睛里掉出鱼鳞),我原以为这和许多惯用语一样,也是出自中国的成语典故,没想到竟是出自《圣经》。在《圣经》新约的《使徒行传》第9章中,就有这样的表述:“有像鱼鳞似的东西从扫罗的眼睛里落下,他便能看见了。”

 

本来は「迷いから覚める」という意味で使われているものだが、日本では何らかのきっかけで急に視野が開け、物事の実態が理解できるようになること、あるいは単に今まで気づかなかったことに気づいた時などに使われる。魚が非常に身近であった日本人は、この表現を見たとき、強い親近感を覚え、また非常に納得するものを感じたのだろう。この言葉は現在極めて頻繁に使われる慣用句の一つとなっている。

原本其含义是“从迷茫中觉醒”,但在日本,其含义发展成为“因为某种机缘,突然打开视野,了解了事物的真相”。或是仅仅表示注意到了此前没有注意到的东西。日常生活离不开鱼的日本人在看到这个词时,想必都会觉得非常亲切,而且很容易领会其含义吧。该词如今已经成为使用率非常高的惯用语之一。

 

聖書由来の言葉には、他に「豚に真珠」というのもある。値打ちがわからない者にはどんなに価値のある物を与えても意味がなく、無駄であることのたとえで、新約聖書・マタイ伝第7章6の「真珠を豚に投げ与えてはならない」に由来する。これと同様の意味を持つ慣用句はいくつもあって、ほとんどが動物+「有難いもの・貴重なもの」という組み合わせであり、「猫に小判」「犬に論語」「馬の耳に念仏」など、無数のパターンが存在する。

来自《圣经》的词汇还有“投珠于豕(豕读作shǐ,即对牛弹琴)”。比喻对于不懂得事物价值的人,无论给他多么有价值的东西也是白费,毫无意义。该词来源于《圣经》新约《马太传》第7章第6节的“不要把珍珠丢给猪”。还有几个表达同样含义的惯用语,其形式几乎都是动物+“难得的东西或贵重物品”,比如“给猫金币”“对狗讲论语”“对着马耳念佛”等,有多种表达方式。

 

日本語として定着している多くの故事成語は、中国の古典に記されたエピソードがもとになっているものが圧倒的に多く(例えば四面楚歌しめんそか、蛇足だそく、禍(わざわい)を転じて福と為すなど)、中国文化が長らく日本にとって「先生」であったという事実を示しているが、明治維新以後、西洋文化もまた「先生」として、日本語に少なからずの影響を与えていると言える。

日语中已经固定下来的诸多成语典故,绝大多数都来自中国古籍中的奇闻轶事(比如四面楚歌、画蛇添足、转祸为福等),这显示出长久以来,中国文化是日本的“老师”这一事实。然而,明治维新以后,西洋文化又成为了日本的“老师”,可以说对日语的发展产生了巨大影响。

 

 

 

 

関連文章