テレサ・テン 早世した「アジアの歌姫」

2020-01-22 15:15:57

劉檸=文

テレサ・テン(鄧麗君)が亡くなって25年、彼女自身も歌もすでに伝説になっている。台湾省高雄市河西路にあったテレサ・テン記念館には毎日大勢の観光客が訪れ、最盛期は1日に2000人を超えることもあったという。その中で一番多かったのは中国大陸部からの観光客で、その次が日本人、シンガポール人、マレーシア人だった。

日本でテレサ・テンは、「昭和の歌姫」として語り継がれる国民的歌手・美空ひばりと共に、アジアの「二大歌姫」と呼ばれている。彼女の歌は当時のレコードの売上記録を塗り替え、スナックやカラオケでは今でも歌われている。少女の時からすでに有名だったテレサ・テンが真の「歌姫」となったことは、日本での活動や支持と大きな関係がある。彼女の成功は、戦後日本の芸能界におけるスター育成の成功例の一つだ。

1974年、「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)と契約を結んだテレサ・テンは、アイドル歌謡曲のシングル『今夜かしら明日かしら』で日本デビューを果たすが、この売れ行きは思わしくなかった。そこで彼女は売上不振の責任を認めるとともに、演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目『空港』が大ヒット。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得し、日本でトップ・スターの仲間入りを果たした。

80年代になると、中国大陸部での改革開放の全面的な推進に伴い、テレサ・テンの影響力はますます拡大して、一大ブームを巻き起こした。大陸部では、「昼は鄧小平の話を聞き、夜は鄧麗君の歌を聴く」という冗談まで出るようになった。84年、日本のファンの強い要望もあって再来日した彼女は、新曲の『つぐない』で日本有線大賞を受賞した。翌年にリリースした『愛人』でも日本有線大賞を受賞し、この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場する。86年に3曲目となる『時の流れに身をまかせ』によって、日本有線大賞および全日本有線放送大賞でそれぞれ史上初の3年連続グランプリを受賞した。85年にNHKホールで行われたソロコンサートは、彼女の歌手人生の頂点と言ってよい公演だった。

作詞家の荒木とよひさは、テレサ・テンのことをこのように振り返っている。「彼女の歌詞を書く時は、目立つ言葉や時代の先端を行くような言葉は外しました。中高生でも分かる、徐々に心に染み渡る歌を作ろうとしました」。この「隣の家の女の子」のような親しみやすい彼女のキャラクターは成功と無関係ではない。

テレサ・テンは日本を愛し、日本のファンを非常に重視した。晩年は病気で歌謡界から離れたが、日本でのテレビ出演は最後まで続けていた。9411月にNHKの『歌謡チャリティーコンサート』に出演してから半年後、95年5月にタイのチェンマイで気管支喘息による発作のため、42歳の若さでこの世を去った。

日本もテレサ・テンを忘れない。日本では彼女の死後もCDやDVDなどが売られ、2015年5月23日には「テレサ・テン(鄧麗君)メモリアルコンサート~没20年追悼チャリティ音楽会~」が渋谷公会堂で行われた。3Dホログラム技術でよみがえった「歌姫」の姿に、会場で多くのファンが涙を流し、今も愛されるテレサ・テンの魅力が日本中に伝わった。

 

昨年420日、天津市で中国テレサ・テンファンクラブ音楽文化拠点が立ち上げられた。オープンニングセレモニーでは、容姿も声もテレサ・テンそっくりの歌手杜佳瑶さんがオリジナル曲『テレサ・テンに敬意を表す』を歌った(cnsphoto

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