無人航空機開発の先駆者 101歳でも探究心持つ

2019-07-30 16:41:21

 

北京航空航天博物館に展示されている「北京5号」無人航空機関連の写真を見て、当時を振り返る文伝源氏

 

今では珍しいモノクロ写真に映っているのは、真っ黒な複葉機が空高く飛んでいる姿だ。中国のシステムシミュレーター学科の創始者で、北京航空航天大学(以下、北航大学)で長年教壇に立った文伝源教授(101)には、ひと目でそれが久しく会っていない「旧友」だと分かった。「間違いない。『北京5号』だ」。61年前、文氏は設計者として北航大学の学生300人を率い、約100日間の奮闘の結果、中国初の無人操縦飛行機を開発した。そのフォルム、システム、データは今でも文氏の脳裏に鮮明に刻まれている。

100日余りで中国初を達成

時間は1957年にまでさかのぼる。北航大学の教師だった文氏は、中国のために無人航空機を製造するという大胆な構想を思い付いた。当時の中国は「資料も経験も設備もない」という状況であり、このような奇想天外すぎるアイデアにソ連の専門家も首を横に振った。しかし文氏は初心を貫き、学生たちと共に技術提案書と研究開発計画を作成し、最終的に当時の周恩来総理から支持を得た。58年6月29日、同大学に無人航空機研究開発指揮部が設立され、技術的な難題に挑む作戦が始まった。目標は、同年の「十一(新中国成立記念日に当たる101日。国慶節)」までに無人航空機を空に飛ばすことだった。

このプロジェクトは時間が限られ、プレッシャーも大きかった。当時、無人航空機には自動着陸システム、エンジン制御システムなど12の重要システムの研究開発が待たれていた。それに対し研究チームも、空気圧グループ、データテストグループ、自動離着陸グループなど12のグループに分かれた。文氏は「総指揮」として科学的な管理にこだわった。計画の完成時期を先に決め、それから全員を率いてスケジュールを逆算し、順番に取り組み、さまざまな管理手段を用いて、着実に推し進めた。無人航空機の取り組みにおいて最も肝心なのは、離陸と降下だ。文氏はこう語る。「有人操縦の航空機で起きる事故のほとんどは、離着陸の瞬間です。無人航空機が安全に離着陸するには、さらなる努力を要します」

万全を期すために、大量の実験が必須だった。テスト飛行時、地上には安全を保障するスタッフが配備され、機内にはパイロットと文氏ら主な設計者が乗った。テスト飛行は常に危険と隣り合わせだ。「ある実験時、航空機を自動操縦モードに設定して、離陸時にはまっすぐ滑走して飛ぶはずでした。しかし突然、カニのように横に向かって発進しました。直ちにパイロットに有人操縦モードに切り替えさせ、飛行機はやっと安定しました。処置が間に合わなければ、想像もできない結果になっていたかもしれません。今思い返しても恐ろしいですね」

作業員はテスト飛行をしながら、データを測量しなければならず、あらゆるパラメーターを一から徹底的に測定した。その期間は徹夜での作業が当たり前になり、文氏は時には3日間寝ずに働き、激務のせいで53の体重が44にまで激減したこともあった。

有人から無人へのテスト飛行、地上と機内での個別の調整から陸空連携の調整をするまで、数百回に及ぶテストを行い、飛行機の信頼性がついに保証された。58年9月に、無人航空機が必要とする12の重要システムの研究開発が完成し、機体に搭載してテスト飛行することになった。「十一」当日、「北京5号」の無線通信による誘導着陸の正式テストが成功し、北航大学の学生は自身の研究成果を新中国成立記念日にささげることになった。この能率の良さは、テストを見学していたソ連の専門家も次のように感服した。「ソ連なら、三つの研究所が2年がかりでようやく完成させられるものだ」

それからまた5カ月間のテスト飛行、調整、修正を行い、59年2月に「北京5号」のテストは最終試験をクリアした。75年、北航大学は「殲6(J-6)」戦闘機フライトシミュレーター機総設計チームを設立した。文氏はチームリーダーとなり、全国40以上の協力機関と連携し、8年の奮闘を経て、中国初の戦闘機フライトシミュレーター機の研究開発を完成させ、空軍に引き渡した。これにより、中国の飛行訓練の空白が埋まったのである。

 

北航大学に飛行機設備学科が設立された1954年に教職員たちが撮影した記念写真を細かく見て、若かった自分や仲間を探す

 

いくつになっても学び続ける

60歳という年齢は、多くの人の目には、定年退職して老後生活を楽しもうという年齢に映る。しかし、文氏の定年退職後の人生は1978年の改革開放後に始まり、北航大学の教員学生と共に統合飛行火力制御、デザインシミュレーター、インテリジェントコントロール、システムシミュレーター、総合システムなどの分野で積極的に開拓と革新をする中を生きた。老いに負けない文氏は、67歳で国家科学技術進歩1等賞を受賞し、72歳で全国レベルの学術討論会で報告を行い、79歳で国家教育成果1等賞を受賞し、89歳になっても大学院生を指導していた。今年、101歳になる文氏は、つえを突きながら図書館に通い、本を一度に13冊も借りた。大半は新刊で、ブラックホール、重力波、ビッグバンなどの最新の研究成果が紹介されている。図書館で自習する学生らも、文氏の姿を見掛けると、非常に胸を打たれるという。

文氏は、国家の航空事業に十数年間貢献できたことは非常に誇らしいと語る。今はもう教壇に立つことはできないが、広大で神秘的な宇宙には「考えたくてたまらない問題」がまだたくさんある。文氏は今でもこれらの問題を考え、いろんな可能性を思い巡らせ、国内外の最新の科学技術の発展に注目している。「この分野において私は揺るぎない意志を持っています。まだ一生懸命勉強する必要があります」

今年は「北京5号」テスト飛行成功60周年に当たる。北航大学で行われた記念式典で、文氏は感激を込めてこう述べた。「私は自分が老人だとは思いません。われわれは手を取り合って、奮闘し続け、宇宙探求の分野でより大きな成功を収めましょう」(任敏 航小萱=文  和冠欣=写真)

 

妻(後ろの車椅子)と同博物館に展示されている飛行機を見学する

 

人民中国インターネット版

 

 

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