追憶の長谷川テル 人、ドラマ、平和の尊さ

2018-12-29 15:16:02

袁舒=文 王浩=写真

 

「あなたたちの敵はここにいません!」――80年前の1938年、凛とした芯の強い女性の声が、戦場に響き渡った。26歳のエスペランティスト長谷川テルは、日本軍の侵攻による中国の惨状を目の当たりにし、強く心を痛めた。そして、停戦と平和を訴えるために、武漢、重慶の戦場から電波を通して日本兵に心の声で呼び掛けたのだ。

その40年後、中日平和友好条約が締結。日中友好に命を捧げた先人をしのび、平和友好に対する信念を後世に受け継ごうと、長谷川テルの勇敢な一生がドラマ化された。森開逞次、福本義人両監督による栗原小巻主演の初の中日合作テレビドラマ『望郷の星 長谷川テルの青春』(1980年)である。

放送から再び40年近くたった今年、中日平和友好条約締結40周年を迎えた。この喜ばしい節目の年に、改めてこの作品の時代を超えた意義と今日における長谷川テルの精神の意味について問い直した。今回、長谷川テルとその夫劉仁の墓参のために訪中した2人の関係者――長谷川テル役を演じた栗原小巻さん、長谷川テルの遺児長谷川暁子さんを招き、日本中国文化交流協会専務理事の横川健氏と中日映画交流史の専門家劉文兵氏を交え、本誌総編集長王衆一が北京で話を聞いた。

平和と友好の守護者 長谷川テル

80年前、火の玉が飛び交う戦場で、平和を唱えた勇敢な長谷川テルさん。彼女は一体どんな方だったのでしょうか」。本誌総編集長王衆一の問い掛けに、長谷川テルの娘である暁子さんは、深い思い出の扉を開けた。

「母は困難にめげない真っ直ぐな志を持っていたのでしょう。娘として、そんな母を尊敬しています」

 

日本での和服姿の長谷川テルさん。夫と共に中国へ渡ってからは、現地の生活にすっかり溶け込み、和服を着ることは一度もなかったという(写真提供・長谷川暁子)

テルさんは抗日戦争中、留学生だった中国人青年劉仁と知り合い、一生の愛を誓った。だが時代は戦争のさなか。悲惨な現状に耐えかねて、テルは夫と共に中国へ渡り、さらに重慶へと進む。当地で夫劉仁は、東北地方の抗日活動を支援する東北救亡総会の機関誌『反攻』の編集長を務めていた。夫を支えながら、テルは反戦活動に身を投じる。1937年から、テルは日本に侵略戦争を思いとどまらせようと、武漢や重慶などの戦場で前線の日本兵たちにラジオで停戦を呼び掛けた。日本軍が中国で犯した罪、あまりにひどい行い。テルは自分が目にした全てをありのままに伝え、それを聞き涙した兵士もいた。しかし、そんな彼女は当時の日本側から「嬌声売国奴」(甘い声の売国奴)と言われ、日本国内にいた家族はさまざまな迫害を受けた……

中国で『望郷の星』が放送されたのは80年。まだテレビが普及していない時代、烈士の遺児として中国で育った暁子さんは、当時住んでいた中衛(寧夏回族自治区の中西部の町)から2時間ほど汽車に揺られて、都会の銀川(寧夏回族自治区の中心都市)まで行き、当地の市役所の小さなテレビで初めてこのドラマを見た。幼い頃に両親を亡くした暁子さんにとって、父と母は漠然としたイメージで、むしろ栗原さんが演じる「お母さん」の方が印象深かった。暁子さんは、小さい頃から教えられて来た英雄長谷川テルの娘という自分を心の底から受け入れ、両親が生きた時代に命懸けで守り抜きたかった信念を知ろうと決心した。

そして日本への留学の道を選んだ。

80年代は、日本に留学していた暁子さんにとって、長谷川テルの遺児というアイデンティティーを確実なものとしていった時期でもあった。中日友好運動に携わる人々に話を聞き、戦争のこと、強制労働者のこと、慰安婦のこと、そして731部隊のことを書いた中国の文献を日本語に訳したりするうちに、過去の歴史や国民感情を正視しなければならないと強く思うようになった。

「長谷川テルの娘としての使命というには少し大げさですが、やはりその面で努力していかなければならないなという気持ちになりました。その過程で、研究というほどでもありませんが、父と母のことをつづった本をたくさん読みました」

90年代に入り、テルを研究する大阪のグループと共に、テルが歩んだ道をたどることになった。暁子さんらは、上海でのテルの住まいや武漢、ジャムス(佳木斯)などを訪れ、当時両親が生きた場所に自らの足跡を重ねた。暁子さんの中で、長谷川テルという人間像が次第に鮮明になっていった。

「両親について理解を深めていくうちに、2人の性格や考え方を知り、彼らの勇気と正義感は何も特別なものではなく、彼らにも頑固さや身勝手さという欠点があったのと同じように、いたって普通のことなんだと気付きました」

両親の面影を追う中で、暁子さんは常に2人の平和に対する信念を支えたものは何なのか、と考えていた。若い頃には分からなかったことでも、時を重ねると、その本質が見えてくると言う。

「今、中国と日本の関係が低迷する中で、ほとんどの日本人は中日関係をあまり直視していないと思います。しかし、小巻さんや日中文化交流協会の多くの方々は、社会的に無視されている問題や、みんなが避けたいと思っている問題に取り組み、困難な状況の中にありながらも一生懸命に中国と交流をして、国と国ということを別にして人と人の心の交流を頑張って来られました。それはやはり、人としての良識や誠実さがあるからだと思います。当時、私の両親も同じだったのでしょう」

 

『望郷の星』が放つ輝き

『望郷の星』は夜空に光る一番星のように、暗かった中日関係の空を照らす存在となった。初めての中日合作の映像作品、テーマは反戦、知られざる一人の女性の勇敢な生い立ち。それは、視聴者に平和とは何か、友好とは何か、相手の国の人々とどう接していくべきかなどについて改めて考える機会を与えるものだった。

日本中国文化交流協会の横川健氏は振り返る。

 「長谷川テルさんが偉大な女性だということはかねてから知っていましたが、夫に付いて中国に来て反戦活動に参加したという単純な経緯ではなく、強い信念と自分の考えを持って中国へ来て、中国の人たちと肩を並べて日本の侵略に反対する活動をなされたということを、このドラマを見て初めて知りました。そういう意味でこのドラマはわれわれ日本の一般人にとって、非常に大きな影響があったんだと思います」

 また、長く中日映画交流の研究に携わって来た劉文兵氏は、『望郷の星』が中日の映像交流の中で画期的な存在だと評価した。

 「当時、中日のスタッフたちは、戦争という不幸な歴史を避けるのではなく、しっかりと見据えた上で、誤解に翻弄されつつも常に対話しながら和解の可能性を探り、作品を仕上げていました。その意味で本作品は貴重な試みであり、当時の中日関係の改善に少なからず貢献したと言えます」

 中日双方が協力しながら作品を仕上げること、また中日の観客たちが共同製作のドラマや映画を一緒に見るという前向きな試みも、その時代において大きな役割を果たしたのだ。その大きな意義を考え、当時中日友好協会の会長だった孫平化氏は、「ぜひドラマのタイトルを揮毫してほしい」と鄧小平氏に申し出た。おかげで、数多い中日合作ドラマの中で『望郷の星』は唯一、鄧小平氏から題名の揮毫を受けた映像作品となった。

 

時を超えた知己

 『望郷の星』は、観客に歴史を再認識する機会を与えただけでなく、当事者の人生をも変えた。このドラマを通して、長谷川テル役の栗原小巻さんとテルの娘暁子さんは、30年以上にわたる友情を築くことができた。

 

ドラマ『望郷の星』のワンシーン。中国での生活を始めた長谷川テルさん(右、栗原小巻さん演じる)は身なりも中国人女性そのもの。決して裕福な生活ではなかったが、夫の劉仁さんとともに平和を志す日々には充実した幸せがあった(写真提供・長谷川暁子)

86年に初めてお会いしました。私は留学で日本に来たばかりで一人で悩みを抱え、日本語も拙かった。そんな私を元気づけようと、ある華僑の方がホームパーティーを開いてくれました。その時、私を励まそうと小巻さんはわざわざパーティーに出席してくれたんです」。うれしそうに暁子さんは当時を振り返った。

初めは名女優とファンという感覚で知り合ったが、長谷川テルという存在が2人の心をつなぎ、より深い感情を生み出した。栗原さんと暁子さんは、お互いに相手の芝居や講演会に顔を出し、親しみと尊敬し合う気持ちを深めていった。手紙もやりとりするようになった。その中でも平和について語ることが多くあり、同じ信念を共有できる親友となった。

「皆さんは栗原先生と呼ぶんですが、私が栗原先生なんて呼んだら変な感じ」

「もう、すごく変。だってドラマでは暁子さんの『ママ』だもんねぇ」

「ねぇ」

2人はまるで高校生のように、お互いの顔を見て、目を細めて心から笑い合った。

今回、2人が一緒に中国を訪れたのは、長年の約束を果たすためだ。それは、一緒にテルさんと劉仁さんの眠る地ジャムスを訪れたいという、2人の長年の夢だった。

「私たちは出会った時から折々に話をする中で、一緒にお墓参りに行きたいという願いがありました。それが今回、たくさんの方のご好意と努力により実現できました。しかし私自身、それが壊れてしまうのではないかという心配があって、空港に着いてからやっと暁子さんにご一緒させていただくという連絡をしたんです。その時は本当に胸がいっぱいになりました」。栗原さんの顔からホッとした表情がうかがえた。

ジャムスで2人は、長谷川テルさんと夫の劉仁さんの墓の前で静かに手を合わせ、時代を超えても変わらない平和の信念を確かめ合った。

 

合作で生まれた中日の絆

初の中日合作の映像作品として、テレビドラマ『望郷の星』は、製作過程でもさまざまな壁にぶつかった。言葉の壁、政治環境の壁、考え方の壁――それらを乗り越えて一つの作品を仕上げるのに、中日双方が注いだ熱意は並々ならないものだった。

ドラマの舞台の一つ重慶は当時、一般の外国人が訪れるのは難しかったため、撮影が順調にいく保証がなかった。そのうえ季節もちょうど12月。特有の濃霧で、飛行機が無事に着陸できるかすら分からない状況だった。そんな状況の中でも、制作班はロケの日程を決めて、とにかく前へ進もうと半分がむしゃらに突き進んで行った。

「日本より中国での撮影のほうが多く、中国側スタッフの皆さんのご努力と創造性、そして熱意に感動させられました。作品の内容が政治と関係していて、困難はたくさんありましたが、両国のスタッフ、キャストは心を一つにして取り組みました」。栗原さんは当時のことを思い出し、感慨深げに語った。合作作品を制作する過程そのものが両国間の固い懸け橋となり、心を通い合わせた話し合いの一つ一つが深い絆となった。

「現在、このような建設的な共同作業はほとんど見当たらなくなっています」。40年前の両国スタッフへの敬意を表した劉文兵氏は、同時に現在の両国の映画協力に懸念を隠さない。近年、史実やリアリティから逸脱した形でかつての戦争を描いた一部の中国ドラマや映画、また侵略の過程での日本人の加害者略奪者としての側面を完全に無視した日本の戦争映画は、どちらも全く異なる視点で製作され、それぞれの国内市場で内向きに消費され続けている。

今年5月、「中日映画共同製作協定」が調印され、商業べースの合作がさらに大きく進む可能性が広がった。単なる消費文化にとどまらず、歴史など重みのあるテーマに正面から取り組んだ映画やドラマの製作も必要ではないだろうか。

「中日の作り手が協力して作品を製作し、両国の観客もまた共同製作作品を見ることで、両者の見解の差異を含めて歴史を議論する場を提供する――ということです。たとえそうした試みが、両国間の現在の緊張関係を一挙に解消し、和解をもたらすことはないにせよ、映像による歴史を巡る対話を通して、和解のための基礎前提を生み出すことは可能でしょう。歴史に接近する方法として、中日合作映画やドラマの制作が一つのきっかけとなるのではないかと思います」。劉氏は未来を見据え、いかに先人たちが築きあげてきた絆をいっそう深めていけるか、熱く語った。

 

伝え継ぐ平和への祈り 

ドラマ『望郷の星』は、80年に短期間放送されただけなので、今の世代にとってはなかなか見ることができない「幻のドラマ」ともいえる。中日関係が新たな一歩を踏み出した今日、長谷川テルの精神の継承と中日合作映画の上映は大きな意義を持ち、その意味でも大変残念だ。

 

ジャムス烈士霊園で、亡き長谷川テルさんと劉仁さんに花を手向ける娘の暁子さん(左)と栗原小巻さん。1947年、テルさんの病死に心を痛めた夫の劉仁さんも、テルさんの死から100日後、後を追うように他界した。2人の遺骨はこのジャムス烈士霊園に埋葬され、永遠の時を共にする(写真提供・劉文兵)

横川健氏は語る。「このドラマの放送から今日まで、すでに40年近くたっています。今では、長谷川テルさんが望んだような戦争のない平和な環境の中で、日本と中国は経済的な交流も非常に深まっていますし、文化交流もますます盛んになっています。人々の相互往来も驚くような勢いで増えています。ただ、それでも今の平和的な日中関係に対して歴史の歯車を逆に回そうとする人たちがいるわけです。だからテルさんの考えたこと、したことをもう一度日本の、特に若い人たちが知って学ぶということがとても大事だと思います。暗黒に対して戦った長谷川テルさんの努力に報いるためにも、その意志を継ぐためにも、日本の若者はそういう暗黒な時代が来ることを防ぐためにいろいろと考え行動していくべきだと思います。その意味でこのドラマを再放送するのは、とても大事だと思います」。横川氏はドラマ再放送の意義を力強くアピールした。

最後に王衆一総編集長が話し合いを締めくくった。

「いつの時代でも日本にも中国にも両国の平和と友好を促進し、続けていこうとする健康的な力があるから、両国関係はどんな困難にぶつかっても後退せずに少しずつ前に進んで行くのでしょう。今の時代に生きる私たちは平和を大切にし、中日両国民の相互理解に基づく真の友好を守るために、命を懸けて努力した先輩たちの精神をしのび、それを次の世代へ伝え、継承していく義務があるのでしょう」

40年後、80年後、そして100年後を問わず、中日の懸け橋となったテルさんと劉仁さんの平和への祈りが次の世代に伝わり続くことを願い、私たちは未来へ向かって行くだろう。

 

 

 

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