日中友好の井戸掘った人を回顧 「岡崎嘉平太とLT貿易」特別展

2019-02-02 13:56:01

陳蘊青=文 清華大学=写真提供 

 

150人が参加して行われた「岡崎嘉平太とLT貿易」特別展の開幕式(写真林昶)

中日平和友好条約締結40周年と、その友好に尽くした実業家岡崎嘉平太生誕120周年を記念した特別展「岡崎嘉平太とLT貿易(中日長期総合貿易に関する覚書)」が昨年12月、北京の清華大学美術学院展示ホールで開かれた。同展は、東京羽田空港内で昨年7、8月に開かれた特別展「岡崎嘉平太とその時代~日中友好の井戸を掘った人々~」に続く第2弾(いずれも清華大学とANAホールディングス共催)。今回のリポートは、北京での特別展から戦後の中日友好と岡崎氏が果たした貢献を振り返り、ゆかりの人々の思い出を紹介する。

  岡崎嘉平太氏は1897年(明治30年)4月16日に岡山県大和村(現吉備中央町)に生まれた(1989年9月22日、92歳で死去)。大学時代に中国からの留学生と交友を深めたことから、中国に関心を寄せ始める。その後、銀行マンや外交官として中国に勤務。貧しい中国と暴挙を繰り返す日本をつぶさに見た経験から、岡崎氏は生涯をかけて中日友好事業に取り組むようになった。

 

岡崎嘉平太氏の肖像画(写真・林昶)

今回の特別展では、この岡崎氏の歩みを中心に、中日友好の軌跡を紹介している。館内は、「中日国交正常化と岡崎嘉平太」「岡崎嘉平太を中日友好へ導いたその源流」「岡崎嘉平太とLT貿易」「岡崎嘉平太――中日友好に捧げた生涯」という四つの部分で構成され、文献や映像史料、ゆかりの品々、手書きの記録などにより岡崎の生涯、特に中日友好交流促進の業績を分かりやすく展示している。

同展の開幕式には、元文化部副部長の劉徳有氏、駐中国日本大使館の横井裕大使、ANAホールディングスの伊東信一郎会長、清華大学党委員会の向波濤副書記が出席した。開幕式に続いて、清華大学日本研究センターの李廷江主任による国際シンポジウム「覚書貿易時代の中日関係――岡崎嘉平太と中国」が開かれた。

同シンポには、「LT貿易」時代に日本側の駐北京連絡事務所のスタッフだった大久保勲氏や、当時、北京日報の記者で、その後に在大阪中国総領事を務めた王泰平氏、「LT貿易」で中国側の在東京連絡処の首席代表で元中日友好協会会長を務めた孫平化氏の長女孫暁燕氏、さらに人民中国雑誌社の王衆一総編集長などが出席。岡崎氏をはじめとして、中日友好の井戸を掘った人々の物語を振り返った。

 

半官半民の「岡崎提案」

 中華人民共和国が成立した1949年、時はまさに米ソ冷戦が激しさを増す時代だった。中日両国は国交がないだけでなく、両国関係も非常に緊張していた。中日関係の改善が両国民の利益に合致し、アジアの平和的な発展にも役立つことを配慮した周恩来総理は、「民間が先行し、民をもって官を促す」方針を提起。さらに「民間が先行し、貿易から手を付ける」などの具体的な措置により、民間貿易から中日関係を一歩一歩改善していくことを望んだ。

 中日両国は50年代に、民間貿易協定を前後して4度締結した。しかし、日本政府の対中経済封鎖禁輸政策や58年に起きた長崎国旗事件(右翼団体による中国国旗の毀損事件)などの政治的な事件により、両国の民間貿易が非常に不安定となった。また、民間貿易を通じて発展した友好関係も、ほとんど中断される事態となった。両国の有識者は早々に、経済貿易の発展は政治関係とは切り離せないと悟った。

 こうした動きに対して周恩来総理は、中国政府を代表し「中国敵視政策をやめる」「『二つの中国』をつくる陰謀をやめる」「中日両国の国交正常化を妨げない」という「政治三原則」と、「政経不可分の原則」などを提起した。これらの原則は、非常に現実的で柔軟な条件で、決心すれば中日関係の改善は難しくないと、日本の一部の政治家や民間の友好人士に受け入れられた。

 この流れを受け、60年代初めに岡崎嘉平太氏や松村謙三氏、高碕達之助氏といった実業家をはじめとする両国関係の改善を望む人々が奔走。当時の池田勇人首相に中日友好の重要性を伝えた。その中で、岡崎氏が62年6月に提案した半官半民的な「岡崎提案」が池田首相の目に留まり、後の「LT貿易」のひな型となった。

 

中日友好の本当の推進者

 「LT貿易」は覚書貿易とも呼ばれ、62年に調印された「中日長期総合貿易に関する覚書」の略称だ。LとTの文字は、覚書に署名した両国の代表者である廖承志氏(アジアアフリカ連帯委員会主席)と高碕達之助(元通産大臣)の頭文字から取った。

 それまでの4度の民間貿易協定と違い、「LT貿易」は両国政府要人の支持を得て、「経済により政治を促す」ことを求め、中日国交正常化の早期実現のための基礎となった貿易協定だ。同協定の締結は両国貿易の発展を促進し、中日貿易の総額は72年の中日国交正常化前には最高に達した。また協定は、記者交換や技術者の派遣などの形で両国の人的な交流を促進した。

 

北京人民大会堂で行われた中日覚書貿易会談コミュニケと貿易取り決めの調印式で署名する岡崎氏(手前左の着席者、19713月)

協定のために設けられた中国側の東京連絡処と日本側の北京事務所は両国政府の意思疎通の窓口となり、実際には大使館としての機能も果たした。両国関係が害され後退する時、「LT貿易」によって作られたこのパイプが、障害を克服し難局を打開するという他では取って代わることのできない役割を果たした。さらに、政治三原則、政経不可分の原則、台湾問題に関する原則など「LT貿易」の交涉で積み重ねて会談のコミュニケに盛り込まれた一連の原則は、後の「中日共同声明」の土台となった。

「LT貿易」の提案者である岡崎氏は、62年から74年まで日本側の責任者として協定の維持に大きな力を尽くした。60年代後半、両国関係が緊張し、協定の継続が非常に難しい時でも岡崎氏はまったく動揺せず、こう語った。「中日両国をつなぐこの糸がいくら細くなっても、つなぎ続けることが大切です。両国が、相手の考えをまったく分からないことほど危険なことはないからです」

日本政府が国交正常化を求めるものの、戦争賠償金の問題を懸念して進展がない時、岡崎氏は「同じ戦争被害者の日本国民に戦争賠償を求めない」という覚書貿易会議での周総理の意見をすぐさま外務省に伝え、中日国交正常化の早期実現に大きな貢献をした。

当時の田中角栄首相が中国を訪問する2日前の72年9月23日、周総理は岡崎氏のために、ささやかな食事会を北京で開いた。その席で周総理は中国のことわざの「飲水思源」に触れ、岡崎氏を賞賛した。「中国では『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』ということわざがあります。間もなく田中首相は中国に来られ、日中の国交は正常化します。しかし、田中首相が来られたから国交が回復するのではありません。長年にわたり、どんな困難があろうとも志を貫き、中日友好に努力された方々がいたから、今日の正常化があるのです。岡崎さん、あなたもその一人です」

 

周総理との「刎頸の交わり」

岡崎氏のさまざまな物語の中で最も興味を引くのは、周恩来総理と結んだ「兄(岡崎氏が1歳年上)、弟」と呼び合うほどの友情だ。当時、周恩来総理の通訳を担当した元文化部副部長の劉徳有氏は、2人の最初の面会に立ち会っている。清華大学のシンポジウムで、劉氏はその時の情況を語ってくれた。

周総理は62年秋、岡崎氏と高碕達之助氏が率いる日本経済界の大型代表団と会見した。会談の中で周総理は、中日関係への歴史に残る総括を述べた。「甲午戦争(日清戦争)以来、日本の軍国主義はわが国を侵略し、中国国民の命と財産に莫大な損害を与えました。これに対して、われわれには深い恨みがあります。しかし、その後の数十年の歴史は中日友好2000年の歴史と比べ、わずかな時間です。われわれは日本に恨みを抱いていますが、それを忘れようと努力しています。これからの中日両国は、友好な関係を築き、アジアの平和と繁栄のために共に努力すべきであります」

 

北京人民大会堂で周総理と乾杯する岡崎氏(721023日)

周総理は話を終えると突然、岡崎氏に意見を求めた。岡崎氏は、中国のことわざの「刎頸之交(刎頸の交わり)」を引用して答えた。「中国の戦国時代に、趙国の宰相の藺相如と将軍の廉頗は仲が悪かったが、国益のために最終的には仲直りをしました。日中両国は、両国の人々の利益のために友好を続けていくべきであると思います」

周総理は岡崎氏の話を賞賛し、2人はこの時から深い友情を結んだ。かつて周総理は岡崎氏をこのように評価した。「岡崎さんは友情のために命を懸けるような人です。私は彼を非常に信用しています」。岡崎氏もまた周総理を非常に敬慕し、人生の師と仰いだ。

当時、北京日報の日本駐在記者だった王泰平氏も、一生忘れられないという思い出をシンポジウムで披露した。89年9月22日、岡崎氏が92歳の高齢で亡くなった時のことだ。王氏は当時の唐家璇公使と一緒に通夜に参列し弔意を伝えた。そのとき王氏は、ひつぎの中の岡崎氏の胸に、周総理の写真を入れた写真立てがあるのに気が付いた。岡崎氏夫人の時子さんの話によると、これは岡崎氏の生前からの希望に従って入れたものだった。実は、LT貿易北京事務所の元スタッフだった嶋倉民生氏が、81年に北京の書店で求めたもので、岡崎氏はこれをずっと「至宝」として常に手元に置いていたという。

 

「信」は縦糸 「愛」は横糸

 岡崎氏について劉氏は、「心から平和を愛する人だ。真心をもって中国の人々と接することを主張した。生前、人から揮毫を求められた時、よく書かれていたのは『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく』という格言だった。これも岡崎氏の信条だ」と振り返った。

 

岡崎氏の自筆による「信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく」

王氏は、自ら見たもう一つのエピソードも紹介してくれた。

64年に日本記者9人が初の北京駐在として赴任する際、岡崎氏は以下のような話を彼らに送った。中国は非常に大きな国だ。交通事故や殺人、放火といった事件は毎日あるだろう。しかし、君たち記者は、ただこれだけに注目してはいけない。こういう報道が多ければ、日本人に対し、中国は混乱して、殺人や放火がよく起こる国という誤解を与える可能性がある。君たちはぜひ真実の姿、本質的な中国を日本の人々に伝えてください。

王氏は、「これは岡崎先生が日本の記者に語った話だ。私も非常に感動した。だから、私は日本に派遣されて記者をしている間、ずっとこの話を座右の銘としていた。もし報道の最前線に立つ記者たちがこの話に従って仕事をすれば、中日両国民の間の誤解ももっと少なくなるかもしれない」と願いを込めて語った。

「LT貿易」の日本駐北京事務所の代表も務めた大久保勲氏は、スタッフとして北京に派遣される直前、岡崎氏からこう託されたという。「絶対に中国人を見下してはいけません。絶対に信用を失うような行為をしてはいけません」「君たちを北京に派遣するのは、事務を執ってもらうためではありません。一番大切なのは中国を見ること、知ることです。中国人とよく交流し、いろいろな地方を訪れ、単純な仕事関係の交流ではなく、人と人との真心のこもった友情を築くようにしてください」

かつて岡崎氏は、「人と人との友情に勝る美しさはないであろう」と話していた。彼は「よく見て、よく交流し、真心をもって接する」ことを、一貫して中日友好を守る鍵としていた。岡崎氏自らがこれを実践しただけでなく、生前100回以上にわたり中国を訪れ、多くの日本人、特に日本の若者たちを率いて中国を訪問した。岡崎氏は84年、日本の青年3000人を率いて中国を訪問し、両国青年の交流と理解を大きく促進した。岡崎氏の没後、遺族は生前の願いに基づいて岡崎氏の主な遺産を寄贈すると共に、全日空の寄付金と合わせて、中国とアジアの留学生たちに奨学金を提供し友好交流を促進するための「岡崎嘉平太国際奨学財団」を設立した。

 

「覚書貿易時代の中日関係――岡崎嘉平太と中国」国際シンポジウムのメンバー。左から678人目がそれぞれ大久保勲氏、劉徳有氏、王泰平氏

特別展の開幕式あいさつでANAホールディングスの伊東信一郎会長は、「全日空の2代目の社長である岡崎氏は、日中国交正常化のために多大な貢献をした。全日空も岡崎氏の願いを受け継ぎ、国際線定期便の運航を開始した翌年の87年、初の日中間定期路線である成田-大連-北京線が就航した。これは、岡崎社長が周総理と交わした『全日空での中国訪問』の約束を果たしたものである。ANAグループは、今回の特別展を通して両国間の文化交流、民間交流を促進し、日中関係のさらなる発展に貢献していく」と表明した。

 

故人を忘れず未来を切り開く

 また、横井裕大使はあいさつで、「私にとって、岡崎先生は最も尊敬する偉大な先輩の一人だ。日中両国が正常な国同士の交流がない極めて厳しい時代に、岡崎先生は常に『民をもって官を促す』という確固たる信念を持ち、松村謙三先生、高碕達之助先生といった同志と共に、中国との民間レベルでの交流や貿易を推進した。今回の特別展が、中国の将来を担う優秀な学生が集う清華大学で開催されることには、大きな意義がある。より多くの若者に、日中関係を発展させてきた両国の先輩たちの熱い思いを感じてもらいたい」と述べた。

 特別展を見学した北京林業大学外国語学院日本語科の学生は、こんな感想を話してくれた。「今回の特別展で、特に会場で流れていた岡崎先生に関するドキュメンタリーを見て、私は岡崎先生が個人の利益や安否を顧みず、命を懸けて中日関係を改善する姿に深く心を打たれました。岡崎先生は、交流と理解、信頼と友情を両国友好の基礎と見ており、私もまったく同感です。今後、中日両国民がますます便利になる交通やコミュニケーションの手段を通して、より多く行き来して交流し、深い友情を結び、世々代々にわたる友好を築いていくことを望みます」

 シンポジウムの最後、劉氏は以下のように話してくれた。「両国民の長期にわたる共同の努力と苦労で築かれた中日関係には、数えきれないほどの有名無名の『井戸を掘った人々』の心血が凝縮されています。岡崎先生はその中の一人で、中日友好と世界の平和に人生をささげました。私たちは、中日友好のおいしい井戸水で作った美酒を味わう今こそ、心血を注いで井戸を掘った人々を忘れてはなりません。私たちが今回の特別展を開催することも、故人を忘れず、歴史を忘れず、原点に回帰し、先輩から受け継いだことを後輩に生かしてもらい、努力し続け、中日関係の新たな未来を切り開いていくためです」

 

関連文章
日中辞典: