友好平和を熱望された両陛下

2019-05-08 19:20:58

法政大学教授 王敏=文

忘れがたい一瞬の出会い

 先月に退位され、上皇となった陛下がまだ皇太子殿下だった頃、偶然少し離れた位置からしっかりと拝見することができた機会がありました。

 今から37年前の1982年春のことです。私は、当時留学していた宮城教育大学から帰国する際、著名な詩人・草野心平氏と、有楽町の帝国ホテルで会う機会がありました。用事を済ませホテルの玄関ロビーを出たところ、当時の明仁皇太子と美智子さまご夫妻がちょうど人波を通り抜けるところでした。ほんの一瞬の出来事でしたが、草野氏から「次の天皇になる方だよ」と説明されたのを覚えています。その時のご夫妻は共ににこやかに手を振られ、優しい印象を受けました。今でも退位の報道に触れるたびにあの瞬間を思い出し、胸が熱くなります。しかし当時は「天皇」についての知識も十分でなく、後にお二人と直接の出会いがあるとは思いもしませんでした。

 

思いがけない皇居でのレクチャー

 今でもはっきりと日付を覚えています。それは2007年2月26日、それほど寒くない穏やかな夜でした。招待を受け、当時の天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下にお会いすることができました。

 きっかけは、この年の1月、宮中の「講書始」で「東アジアの現代文化」を進講された政策研究大学院大学・青木保教授(当時)です。その後、両陛下から現代東アジアの文化交流の現状について知りたいという話が青木教授にあり、この希望にかなうレクチャー役として同教授が私を推薦したという経緯でした。青木教授と、同教授の門下生の一橋大学・足羽與志子教授も同行しました。

 当日は宮内庁が手配した車で皇居に入りました。案内されたのは10畳ほどの和室。椅子と長方形のテーブルだけで部屋いっぱいという狭さで、華美な印象は少しもありませんでした。その椅子とテーブルの質素さにもびっくりしました。中国人の生活習慣を気遣われ、わざわざ用意されたのかもしれないと思いました。

 両陛下は私たちを部屋に招き入れてくださり、私たちは両陛下と向かい合って座りました。お二人は澄み切った眼に優しい笑顔を浮かべ私たちを迎えてくださり、私の緊張感も薄まったのを覚えています。両陛下に勧められ、私は椅子に座りました。青木教授と足羽教授もそばに座りました。

 

美智子さまから届いた年賀状。書棚に飾り、いつも眺めている(写真は全て筆者提供)

 

日中の交流史に深い関心

 こじんまりとした部屋で、両陛下と向かい合って話をさせていただくこの初めての体験に、脳裏に「思無邪(思い邪無し)」という言葉が浮かびました。これは、孔子が『詩経』の真髄である「純粋の大切さ」を説いた言葉です。

 両陛下からの質問に一つずつ答えていくうちに、お二人の穏やかな人柄に引き込まれていきました。

 また、両陛下の日中を中心とした東アジア地域との文化交流への深い関心と造詣には、びっくりしました。その他にも、話題は実にさまざまな分野に及びました。レクチャーと質問の内容はおおむね次のようだったと記憶しています。最初は、明治維新後の近代中国における日本留学と、その成果についてがテーマでした。日本人が創った西洋語訳である大量の和製漢語が中国に逆輸入されたこと。清朝末期の政府が、最難関の「科挙」(高級官吏の登用試験)の合格者たちを日本に留学させ、手っ取り早く西洋の近代教育を学ばせたこと。西洋から発信される政治や経済、社会、文化、宗教などの先進的な知識が、日本を経由して中国に入って来たことなど――日中の近代交流に関わる歴史的な事実に、両陛下は深い関心を示されました。

 

話に時を忘れる

 また、植物についても話が弾みました。話題が陛下のお印の榮(アオギリ、中国では桐)になった時、桐は吉祥が宿る樹木を意味するのは日中共通だと説明すると、陛下は感慨深げな様子でした。美智子さまは、ご自分のお印は白樺だと話され、ちょうど季節の花である桃の生け花を見せられ、昭和天皇妃の香淳皇后のお印が桃だったと教えてくださいました。

 中国文化を大量に吸収していた万葉集の時代、日本では花といえば梅でした。『万葉集』には118首もの梅を詠んだ歌があり、萩を歌った歌(138首)に次ぐ2番目の多さです。当時、梅の花は中国から伝わって来た貴重な植物で、食べ物や薬用としても価値があり、貴族たちに好まれました。梅も桃も中国大陸から渡来した植物で、皇室では大切にしてきたということです。

 秋篠宮殿下の話題では、これまで中国とも関わりのある研究をされたと聞きました。家禽類の研究が専門で、長鳴鶏の生態研究のために、雲南省に現地調査に行かれたこともあるというお話でした。

 このように天皇陛下ご一家にとって、中国にまつわる古今の逸話が常に身近なもので、楽しい話題であると聞きました。さらに、「ニーハオ」といった日常の中国語を、両陛下ともきれいに発音されたのには驚きました。

 また美智子さまは、天皇陛下と共に1992年に初訪中した際の思い出話を紹介してくださいました。訪問先の西安で、一人の老人が一生懸命何かを話しかけてきたそうです。たとえ言葉は分からなくても、中国の庶民の熱意がひしひしと伝わって来て、日本に寄せる思いを感じたということでした。

 その時、美智子さまは小学生の時に音楽の授業で教わった揚子江(長江)の歌を思い出したそうです。水を満々とたたえた大河が、昼も夜も滔々と流れて大陸の沃野をうるおす――という歌詞だったそうです。

 陛下は、常に日中や日韓の平和な交流を願っていることを話されました。日韓の平和友好の話では、桓武天皇の生母が百済王国の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに言及されました。そして古代日本で五経博士が代々招へいされるようになった史実を取り上げ、東アジア地域の相互理解の深化が悲願だと述べられました。

 途中で串挿しの蓬団子が出て来ました。普通より小さく、陛下のご説明によると、皇后さまが皇居の森で朝一番に自ら摘まれた蓬ということでした。

 清新な香りでした。思わず「チャングムの手料理よりもおいしい」と声に出してしまいました。その頃、韓流(韓国)ドラマの『チャングムの誓い』がはやり、私もはまっていたからです。すると、両陛下は愉快そうにお笑いになりました。この場にふさわしくない発言かと心配しましたが、お二人の笑顔にほっと救われた気分でした。

 話が私の宮沢賢治の翻訳・研究になった時、陛下は私に研究で最も感じたことは何かと尋ねられました。私は、平和の願いを実践して行こうとする平常心を日本人も持っており、中国人も日本人も同じ人間だと知ったことだと答えました。これには両陛下は何度もうなずかれていました。

 途中で両陛下と一緒に夕食もいただきました。そして夜も9時を回ったころでしょうか、予定時間を30分もオーバーし、お別れの時間となりました。お二人は、日本の知恵と教養と風格を一身に凝縮してお持ちの方だという印象を受けました。向かい合って座る両陛下からは終始、燦燦とした光を浴び続けたようでした。

 「日中友好のために」

 両陛下はそう言って寒風が吹き通る御所の玄関で手を伸ばされました。それは、私の手にそっと手を添える優しい握手でした。

 私たちを乗せた車は静かに御所を離れました。お二人は車から見えなくなるまでずっと見送ってくれました。

 翌日の新聞で、美智子さまが腸内炎で発熱したと知り、心が痛みました。体調が優れない素振りさえ見せられなかったことに、今さらながら恐縮しています。

 

『パリの周恩来』(中公叢書)の著者、元駐仏日本大使の小倉和夫氏(右から4人目)と周恩来のめい周秉徳さん(右から5人目)、その他の周恩来の親族と筆者(左から3人目)(2012421日、都内の国際文化会館で)

 

周恩来総理からつながる縁

 一昨年の9月8日、中日国交正常化45周年を記念したパーティーが北京・人民大会堂で盛大に開催されました。そこであいさつに立った周恩来総理のめいの周秉徳さんは、以下のように感謝の意を表しました。「新中国が成立してまもなく、伯父(周恩来)は日本の友人に対してこう述べました。『私は日本で生活したことがあり、日本に対する印象はとても深いものである』」

 「1974年12月5日、病身だった伯父は日本で生活していたことを思い出し、情愛深そうに言いました。『私は日本から帰国してすでに55年。1919年の桜が満開の時期に戻って来た』(中略)伯父の遺志を継ぐために、79年4月に伯母の鄧穎超さんが日本を訪れ、温かい歓迎を受けました。そして、私や周家の他の親族たちも何度も日本を訪れました。日本の皆さんは、伯父に対して尊敬と敬慕の念を抱いており、深い印象を受けました。2011年8月、NHKテレビで4日連続してゴールデンタイムに『家族と側近が語る周恩来』という番組が放送されました。日本にいる友人から、周総理は日本では大変人気があり、美智子さまもご覧になり、周総理を大変尊敬していると教えてくれました」

 周秉徳さんが紹介した美智子さまのお言葉の背景には、5年前の12年4月20日の出来事がありました。その日、中国人民政治協商会議全国委員会の委員で中国新聞社副社長でもあった周秉徳さんは、妹の周秉宜さん、弟の周秉華さんと周秉和さんと共に小雨の中、法政大学にある私の研究室を訪ねられ、研究室の留学生たちと共にミニ討論会に参加されました。1919年4月、日本に留学していた周恩来が祖国へ帰国する前に書いた「雨中嵐山」という詩がテーマでした。

 討論会のあったその夜9時ごろ、美智子さまが研究室に電話をくださり、日中平和に貢献した周恩来に感謝する温かいお心遣いを述べられました。もちろん、美智子さまのお気持ちをすぐに周秉徳さんに伝えました。

 このような経緯があったので、2017年8月29日、私が周秉德さんの自宅を訪問。9月8日の中日国交正常化45周年記念式典に先立ち、あいさつの内容について語り合い、周総理への美智子さまの思いを反映したスピーチとなりました。

 

周秉德さん(左)の自宅で(2017829日)

 

再びの訪問と美智子さまの蚕

 初めて天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后)と話をした日から約8年後の2015年5月3日午後、再び両陛下の下を訪れることになりました。前回は3人での訪問でしたが、今回は私一人でした。

 最初の話題は、14年の年末に出版した拙著『禹王と日本人』(NHK出版)を読まれた感想でした。両陛下からは身に余る感想をいただきました。お二人とも日本の風土に現存する治水神・禹王信仰の研究調査に興味を示され、記紀(古事記・日本書紀)にも登場する禹王を通し、大陸との文化交流をよりどころとする日本文化と、皇室の役割について再認識されたと話されました。また、今後も日中の文化交流についての研究を継続してほしいと、励ましの言葉もいただきました。

 私が恐縮したのは言うまでもありません。お二人には、「日々日本から学んでいます。日本を研究することと中国を研究することとは補完し合っています。拙著も日本の社会文化と国民から学んだ事実の体現にすぎず、日本にお礼を申し述べなければ」と申し上げました。

 また禹王信仰に関連し、東アジアの農耕文化には、男性が治水・農耕を行い、女性が養蚕・製糸を行うというように生業にすみ分けがあったと説明しました。日本の皇室行事にそれが反映されていることは、共有の文化が遺産の形態を越えて現実に生きていることであり、文明史における意義が極めて大きいと申しました。

 すると陛下は、新嘗祭のような伝統行事は、そのままの形を残していくことが大切だという考えを示され、昭和天皇から引き継がれた恒例行事の田植えは、形よりその意義を重視していると話されました。

 また、宮中養蚕については特に話が弾みました。美智子さまは、絶滅の危機にひんしている日本の野生種カイコの「小石丸」を皇居内にある養蚕所で飼育し、そこで取れた繭で作った生糸を、正倉院の古代裂(織物の切れ端)の復元などに提供されているそうです。ここで養蚕について美智子さまの和歌を紹介いたしましょう。

 

 真夜こめて秋蚕は繭をつくるらしただかすかなる音のきこゆる

 音ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ

 籠る蚕のなほも光に焦がるるごと終の糸かけぬたたずまひあり

 くろく熟れし桑の実われの手に置きて疎開の日日を君は語らす

 

 養蚕に関して、パリの日本文化会館で2014年2月から約2カ月間、「蚕―皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」と題した展覧会が開かれました。観覧者に配られたカタログに「3世紀ごろ、中国から日本に養蚕が渡った」とあったからでしょうか、美智子さまがその展覧会のカタログを1部私にくださいました。

 現在の上皇陛下は、漢文の素養も並々ではありません。李白の「白帝城」などをそらんじるのは、幼少の時に学ばれた成果でしょう。日中両国民の文化交流や青少年交流、教育交流を望まれ、その交流には両国が共有する漢字と漢文が必要であり、教育者と研究者が活発に活動してほしい旨を話されました。また、不幸な戦争を決して起こしてはならないという両陛下の願いも切実に伝わってきました。

 今回も2時間ほどお話が続きました。前回同様、あっという間に予定の時間が過ぎていました。そしてまた、こちらの車が見えなくなるまで見送ってくださったお二人の姿は、今も忘れることができない光景です。

 

美智子さまからいただいた『蚕-皇室のご養蚕と古代裂、日仏絹の交流』展のカタログ

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