「郷愁を撮るのは運命だった」 4K修復『山の郵便配達』の霍監督

2019-06-10 10:59:29
 聞き手=王衆一

 かつて中国映画に重要な国際的名声をもたらした『山の郵便配達』の4Kレストア版が2019410日、中国電影資料館の小西天芸術影院で初めて上映された。

 この作品は1980年代初頭の中国湖南省南西部、綏寧県の農村郵便に関する物語。引退する農村の郵便配達人である父親が、仕事を引き継ぐ息子を初めて連れ、二十数年間歩いてきた郵便ルートを歩く。道中では山を越え川を渡る。短い時間を共に過ごしたことにより、微妙だったもともとの親子関係は変わり、二人は心中のわだかまりを解かしていった―。99年に中国で上映され、続いて日本や韓国などでセンセーションを巻き起こした。

  『山の郵便配達』で滕汝駿の演じる父親(左)と劉燁の演じる息子

 

 4K版の上映当日、会場に空席はなく、日本のファンも鑑賞に駆けつけた。20年間熟成されてきた美酒のように、作品は20年の時を超え、4K方式を通じ、より芳醇な香りを伴って観客と再会した。細やかな感情表現とより鮮明となった色彩が現れ、人々のノスタルジーを再び呼び起こし、観客の共感を呼んだ。

 上映後には霍建起(フォ・ジェンチイ)監督、撮影担当の趙鐳氏、王衆一・本誌総編集長が舞台に上がり、撮影と修復の過程などについて話した。

 

 4K版の初上映前、霍監督は王総編集長の単独インタビューに応じ、映画との関わりや『山の郵便配達』公開時の裏話などを語った。主なやり取りは以下の通り。

『山の郵便配達』に関するエピソードを回想する霍建起監督(右から2人目)、王衆一・人民中国総編集長(左から2人目)ら(写真・袁舒)

 

霍建起監督の略歴

 中国の映画監督。82年、北京電影学院美術学部を卒業後、北京映画製作所で美術設計に従事。95年に映画監督となり、国内外の映画賞を数多く受賞。主な作品は『山の郵便配達』『ションヤンの酒家(みせ)』『故郷の香り』『愛のしるし』など。

 近年、東京国際映画祭、長春国際映画祭、上海国際映画祭で審査委員を務めた。

 051228日、北京の人民大会堂で開かれた中国映画誕生100周年大会で、ほかの映画芸術家49人と共に「際立った貢献のある国家映画芸術家」の称号を受けた。

 

映画を見るため電影学院へ

 ——北京電影学院に進学した理由は映画を見るためだったそうですね。

 霍建起 子どものころ、家の近くにあった中央省庁職員住宅で、『不夜城』などの一般公開されていない映画をよく上映していて、私たちはよく紛れ込んで見ました。あの時代は大して娯楽もなく、映画は特に興奮する唯一の事柄でした。今になって思えば、当時の映画は大したこともないのですが、そのころは銀幕上の人が言葉を話せるのを見て、とても物珍しく感じました。映画に対する複合感情はあのころに形成されました。

 78年の大学入試で私は中央工芸美術学院と北京電影学院に同時に合格しました。どちらかを選ぶ時、もし北京電影学院に進学すれば、より多くの素晴らしい映画を見られると思いました。当時の考え方はそのように単純で、偽りがなかったのですが、かえって私の人生の道を決定づけました。

霍監督(左)と王総編集長(写真・袁舒)

 

 ——霍監督と第5世代の映画監督はどのような関係でしょうか?

 霍 北京電影学院の78年度入学生には五つの専攻がありました。全員でわずか100人しかいなかったので、互いによく知っていました。私は美術専攻で学んだため、卒業後は十数年にわたって美術の仕事をし、95年にようやく独立して映画を監督しました。ですから、私はスタート時期が第6世代の監督と同じという第5世代の監督です(笑)。78年度入学生の中では私は若い方で、(同期の)田壮壮、陳凱歌、張芸謀らは少なくとも6歳上でしたから、皆さんは私が第5世代だとは思っていないかもしれません。

 

 ——前の世代の監督と異なるあなた方の世代の叙事意識はどこに表れていますか?

 霍 それは時代の進展と関わりがあります。私たちの授業では、鄭洞天先生や謝飛先生がフランスのヌーベルバーグやイタリアのネオレアリズモ、世界の古典作品、一流監督の作品を紹介してくれました。それによって私たちは上の世代とは異なる視野を得ました。私たちの先生は第4世代で、私たちは彼らの啓蒙を受けましたが、さらに遠くへ進み、さらに独立独歩で行動しました。『去年マリエンバートで』のような映画は分からなければ分からないほど良いと思い、誰もがいっそう飛躍を追求しようとしていました。そのため陳凱歌、田壮壮、張芸謀らは駆け出しのころ、上の世代にはなかった前衛性を持っていました。これにより、第5世代の映画の全体的な風格は5060年代の大衆性とは異なっていきました。

『去年マリエンバートで』の1シーン

 

 ——全方位的に現代の世界中の映画から影響を受ける中で、戦後の日本映画はあなた方の世代に影響を与えましたか?

 霍 70年代末と80年代初めはまさに中日関係の蜜月期でした。非常に多くの日本の作品が中国の映画館で上映されました。当時、欧米の映画はまだ普通の映画館ではほんの少ししか見られなかったので、日本映画は際立っていたといえます。ですから、私たちは『君よ憤怒の河を渉(わた)れ』『サンダカン八番娼館 望郷』『遙かなる山の呼び声』『幸福の黄色いハンカチ』などの作品と多くの優れた俳優に触れました。当時は「文化大革命」が終わったばかりで、私たちは突然これほど素晴らしい世界とこれほど美しい人を目にしたのです。高倉健さん、栗原小巻さん、松坂慶子さん、中野良子さん、吉永小百合さん、田中裕子さん、山口百恵さん、浦友和さん、薬師丸ひろ子さんたちは私たちの世代にとって夢の中の恋人でした。今振り返ってみると、理由は二つあります。第一に、あのころの中国人の観念が割合閉鎖的だったことです。第二に、当時の中国では化粧の概念すらまだなかったことです。

 

自己表現を目指して監督へ

 ——大学卒業後に長く美術の仕事をしていたとのことですが、どのようなきっかけで独立して映画を監督したいと思ったのでしょうか?

 霍 卒業後のとても長い間、映画と関係のある美術の仕事をしました。美術スタッフとして『盗馬賊』『再見のあとで』『激情との遭遇』など多くの映画に関わり、自分で物語を語りたいという衝動がだんだん生まれてきました。

 なぜでしょうか? つまるところ、電影学院であれほど多くの素晴らしい映画を見て、卒業後もずっと映画に触れ、素晴らしい映画にとても興奮し、それこそが原動力になっていました。映画は監督の芸術です。1本の映画の中で自分の考え方を完全に表現しようとするなら、監督にならなければいけません。

 そこで私は2年余りの時間を使って試し、広告フィルムを何本か撮影し、映画撮影の感覚を一応把握しました。その過程で、多くの人を配置することに自信を深めました。自分は大して才能はないかもしれないが、ほかの人よりも指揮が劣っているとは限らず、反対に効果はいっそう良いかもしれない。大声で騒ぎ立てるのは一つの仕事のやり方ではあるが、自分にはできない。でも、そうした方法を取らなくても劣らないだろうと思いました。

『盗馬賊』の1シーン

 

 ——1作目はどのようにヒットしたのですか?

 霍 私の初監督作品は95年の『WINNER』です。脚本は妻の蘇小衛です。彼女は芝居を撮るにはシナリオが必要だと考えましたが、業績も金もないのに頼んだところで誰が書いてくれるでしょうか? 彼女は当時、私が映画を撮ることに対し、内心では成功を見込んでいませんでした。しかし、私が頑固で譲らないのを見て、私に相談もせず、映画監督という私の夢を実現させるため、わざわざ私のためにこの脚本を書いてくれました。

 映画は私個人で投資家を探しましたが、やはり北京映画製作所に製作会社になってもらう必要がありました。私は北京映画製作所の人間で、製作会社が必要だったからです。そのころは韓三平さんが所長で、私をとても支援してくれました。こうして脚本、投資、製作会社が全てうまく解決し、撮影を開始できました。

 あの作品は完璧ではありませんが、当時としては十分ユニークな作風でした。それ以前の広告フィルム撮影で形成した映像意識のおかげです。完成後、各方面の反応は特に良く、立て続けに賞を取りました。96年の大学生映画祭最優秀処女作賞、中国映画華表賞優秀作品賞、最優秀脚本賞、上海映画批評家協会賞ベストテン作品賞、最優秀監督賞、長映画祭最優秀脚本賞、金鶏賞最優秀処女作賞など、その年の中国映画界の賞をほぼ総なめにしました。ここで成功したので、後の映画製作が順調になりました。結局、芸術とは作品を拠り所に話をすることなのです。

WINNER』のポスター

 

湖南のドラマ企画を映画に

 ——『WINNER』の勢いに乗り、98年に『山の郵便配達』をまた見事に監督しました。どのようなきっかけで湖南のような地方で映画を撮ろうと思ったのですか?

 霍 1997年に視察で米国を訪問した時、映画の成否にはおのずと手だてと理由があるのだと気付きました。その時、私は謝飛先生と雑談をしていて、彼は民族性の強い作品こそが世界的な作品なのだと言いました。後に、瀟湘映画製作所(湖南省)が『あの山、あの人、あの犬』という小説を持ってきて私にドラマを撮らせようとしましたが、私は映画化したいと頑張り続け、当時の政策を利用して資金を十分に集めました。

 私と撮影、美術、録音の担当者はこの物語がとても気に入り、非常に強く作品づくりの衝動に駆られました。製作チームはとても小さく、辺ぴな場所で撮影し、環境は非常に苦しく、皆が真っ黒に日焼けしました。しかし、誠実に仕事をすれば天は必ず見ていてくれると常に思っていました。また、私は美術を勉強していたので、湖南省南西部の大自然の風景が大好きになりました。

『山の郵便配達』で湖南の自然の中を歩く親子

 

 ——『山の郵便配達』は今見ても非常に前衛的です。皆が現代化と都市化にあこがれている時に霍監督の作品はノスタルジーを表現しています。しかも農村の美しさ、親子の間の優しさをとても自然に撮り、わざとらしさが全くありません。主人公の息子が父親を背負って道を急ぐという非常に印象深いシーンがあります。これは脚本にあったプロットなのでしょうか?

 霍 そのプロットは脚本にありました。しかし、映画のとても多くのプロットは後から豊かになって加わります。それらは私の個人的な経験と関係があります。こうしたノスタルジーを撮ることは運命づけられていて、私の内部にあったのだと思っています。私は過ぎ去った日々を特に懐かしむ人間だからです。以前、長安街付近の北池子一帯にとても長く住み、暇になるとかつての皇帝所有の庭園を散歩し、懐旧にふける深層意識が形成されました。自分が幼いころに生活し、今では風化して消え去った世界を懐かしむ気持ちが頭から離れないのです。幼いころに住んだ建国門一帯の環境がすっかり変わり、もともとの北京にあった護城河もなくなったのを見て、過去を懐かしむ気持ちは絶えず大きくなってきました。陳丹青のような画家はとても小さいころから過去を懐かしむ気持ちがあり、一定の時間が過ぎると振り返って思い起こしていたと言っています。『山の郵便配達』という映画には、父親の心の中に立ち上るそのような情感がほどよくあり、まさしくそこが私の一番好きな部分なのです。それはノスタルジーであるのみならず、そのフラッシュバック自体も前衛的なもので、伝統的な叙事スタイルとは異なります。

『山の郵便配達』で父親を背負って道を急ぐ息子

 

 ——そのように新鮮な感覚があり、また感情の最も深い部分の心の琴線に触れる普遍的な情感が、世界との対話で鍵となる要素になっているのではないでしょうか?

 霍 その通りです。それは世界的なものです。私はモントリオール世界映画祭で、観客が心を動かされるそうした感覚や感動は言葉や表情ににじみ出るのだと身をもって理解しました。後にこの作品が日本で配給に成功したのも、観客のそうした反応の恩恵に預かったからです。当時、北京映画製作所が日本の文化代表団を受け入れました。ある代表団メンバーは新華書店で買ったビデオCDを持って私にサインを求めてきて、さらにネクタイを1本プレゼントしてくれました。彼は目に涙を浮かべ、私たち日本人は父親の後ろ姿を見て大きくなったんですと言いました。

 

東洋人共通の情感でヒット

 ——山田洋次監督の映画『故郷』でフラッシュバックのシーンがあり、夕日の下で息子が父親を背負って歩くシルエットが映し出されました。これと『山の郵便配達』には暗黙の一致があります。東洋人に相通じる情感の表現ではないでしょうか?

 霍 確かに相通じるものです。『山の郵便配達』の影響はすでに私個人の期待した結果を超えています。一つの作品がこれほど大きく広まるのは望んでできることではありません。

『山の郵便配達』で息子が父親を背負って川を渡るシーン

山田洋次監督の『故郷』で息子が父親を背負うシーン

 ——ですが、中国での『山の郵便配達』の興行成績は決して理想的ではありませんでした。

 霍 それは当時の中国自身に市場でのプロモーション意識があまりなかったからです。しかも、この種の芸術映画自体が娯楽市場の作品ではなく、焦点を絞った配給が追いついていなかったことが根本的な原因です。

 

 ——日本ではどのようなきっかけで成功したのでしょうか?

 霍 00年に瀋陽で金鶏百花映画祭が開かれた時、授賞式前に『山の郵便配達』が上映されました。当時、定年前に東宝で配給の仕事をしていた深沢一夫さん、『キネマ旬報』の植草信和さんも活動に参加し、現場の観客の反応に感銘を受けました。後に深沢さんは森川和代さん(中国映画研究家)を通じて北京電影学院の倪震教授を探し、仲介を経て私にたどり着き、日本での配給について話し合いました。最終的に深沢さん個人と岩波ホール、植草さんが代表する『キネマ旬報』、東宝の4社が協力して日本での上映権を購入し、1年かけて宣伝と配給を行う準備作業を計画しました。

 012月に東京へ行って発表会に参加し、メディアの取材を受けました。作品は4月に岩波ホールで公開され、その後センセーションはエスカレートしていきました。325日付けの朝日新聞「天声人語」までもが前例のないほどこの映画を紹介してくれました。すぐに上映が日本全国に拡大されました。

01年、『山の郵便配達』日本公開前の霍建起監督(右)と森川和代さん

 

 ——『山の郵便配達』の日本での全国的な影響力は、かつて『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で上映された時の状況と比較できます。今年は『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で上映されてから40年、『山の郵便配達』が日本で上映されてから18年になります。2作が互いの国で保ち続けている影響力は、中日映画交流史で比較する価値のある実例です。

 霍 当時、作品の配給や上映のためにしばしば日本へ行きました。私の監督した『大唐玄奘』が16年の東京国際映画祭で上映された時、とても多くの観客が私のことをまだ覚えていてくれました。たくさんの人が『大唐玄奘』のパンフレットを持ってきて、また少なくない人が『山の郵便配達』や『初恋の想い出』のパンフレットを持ってきて、サインを待ってくれました。その時、とても面白い人がいました。その人の家はお寺で、東京から少し遠く、家族全員は来れない。そこでわざわざ家族会議を開き、誰が『大唐玄奘』を見に行くかを話し合ったというのです。

霍監督とファンとの東京での交流

 

 ——日本でこれほど広く長期間にわたって影響を与えていることは、監督にとっても予想外ではありませんか? 何がこの影響力を生み出したのでしょうか?

 霍 先ほど触れた東洋人共通の情感があったからだと思います。こうした感動は全世界共通ですが、日本人と中国人の感情は比較的あいまいで、直接的には表現しません。それに加え、普遍的な家族の情感という理由があります。どの人にもそうした体験と理解があったので、日本人の間でいっそう共感する部分があったのでしょう。あのころは日本に行きさえすれば、そうした人に出会いました。六本木である時、ごま塩頭でベージュのコートを着た知識人風の年配男性が、サインのために入り口で私を待っていました。寒風の中で私たちを待っていてくれた彼の熱意は私の記憶に強く残りました。

『山の郵便配達』映画ポスター

 

 ——『山の郵便配達』の後、『故郷の香り』で日本人俳優の香川照之さんをろうあの中国人農民役に起用しました。この作品は脚本段階で日本との協力を考えたのですか?

 霍 これは莫言さんの小説を脚色した純粋な中国映画で、純粋な中国式ノスタルジーを表現しました。日本側と中国側で確かに協力はありましたが、決して合作映画という意味での協力ではありません。主として、完成後の日本での配給を初期段階で想定していたということです。当時、日本は中国映画も比較的重視していたので、私を探し出したのです。

 

 ——日本人俳優に中国人を演じさせるのですから、霍監督にとっても『故郷の香り』は挑戦だったでしょう。この役には大してせりふはありませんが、逆に演技面の要求はいっそう高くなるでしょう。どのように指導しましたか?

 霍 日本側は後日の日本での配給のことを考え、作品に日本人俳優が出演することを望み、香川さんの起用を提案してきました。この役は中国人農民でしたが、作品内ではろうあでせりふがなかったので、私も思い切って彼に演じてもらいました。香川さんという俳優は非常に一生懸命で、とても演技に集中し、苦しみに耐えることもできます。この作品で彼は思いがけず東京国際映画祭の優秀男優賞を受賞しました。今でも覚えている小さなエピソードがあります。受賞が発表された時、彼は全く準備しておらず、ネクタイも着けずにステージに上がりました。ステージに立った後、キャンディーをなめていたことにようやく気付きましたが、興奮してすぐに飲み込んでしまったそうです(笑)。

『故郷の香り』の1シーン

 

山田監督と年齢超えた交友

 ——山田監督とはとても深い縁があるそうですね。

 霍 私と山田監督の交流は比較的多く、年齢を超えた交友といえます。『山の郵便配達』の最初の東京での配給時、まだ宣伝段階に入る前の狭い範囲の上映会に山田監督はいらっしゃったそうです。

 その話を聞いて私はとても興奮しました。『男はつらいよ』シリーズは決してたくさん見たわけではありませんが、学生時代に山田監督の作品をとても多く見ていたからです。『遙かなる山の呼び声』と『幸福の黄色いハンカチ』は最も印象深い作品です。当時、この2本は目玉作で、ごつごつした純粋な芸術映画ではなく、一般市民も喜んで見る主流作品でした。同時に、純粋な娯楽作でもなく、とても優しく感動的で、申し分なく人間性を表現しています。

 

 ——山田監督と初めて会ったのはいつですか? それからどのような交流がありますか?

 霍 初めて会ったのは05年です。その時は『初恋の想い出』が上海国際映画祭のコンペに出品され、私は山田監督と同じ列に座り、彼の中国側ブローカーの紹介を通じて知り合いました。あの時から私たちは比較的多く交流しています。後々、映画チャンネルの『映画の旅』の取材にも一緒に参加しました。

 その後、私も東京で彼を訪ねました。山田監督は松竹の大黒柱です。『男はつらいよ』シリーズは日本の正月映画で、毎年正月に上映されなければ、一般市民は何かが欠けているように感じます。彼の作品には常にユーモアの中に感動的なプロットがあり、笑いの中に涙があります。ある時、私が松竹の山田監督の部屋を訪ねると、松竹の筋向かいにあるレストランでごちそうしてくれました。その時はちょうど『砂の器』公開30周年で、窓から外を見ると隣のビルには『砂の器』の巨大な広告がありました。山田監督は『砂の器』の脚本の一人です。『砂の器』は私が大学にいたころ上海で見ましたから、とても親しみを感じました。

 私と山田監督は多くの協力もしています。中国電影資料館で彼の『東京家族』のプロモーションに協力し、とても有意義な対談をしました。

2017年、招待を受けて北京電影学院で講義する霍建起監督(中央)と山田洋次監督(右)

 

 ——『山の郵便配達』を見てから、私は霍監督こそ中国の山田監督だとずっと思っています。お二人の年齢は大きく離れていますが、作品内の心温まるノスタルジーは同じものです。お互いの心の中に自国の「原風景」に対する美しいイメージが存在しているのではありませんか?

 霍 やはり偶然はあるものです。2011年に私たちが一緒に映画の視察のために日本へ行き、観客と交流した時のことを覚えています。瀬戸内海の美しい都市である広島県竹原市で、私たちが路地を歩いていると、遠くない所で蒼井優さんと一緒にロケ地を眺めている山田監督を王総編集長がひと目で見つけました。そこで瀬戸内海での予期せぬ遭遇が起きたのです。当時、山田監督は『東京家族』を構想していたのでしょう。王総編集長は後に、瀬戸内海は日本人の心の「原風景」だと説明してくれたはずです。実際のところ私の心の中では、中国の農村の美しい山河こそが私たち中国人の心の「原風景」なのです。

広島県竹原市で出会った山田監督(左)と霍監督(写真・王衆一)

自分の時代のベスト達成を

 ——『山の郵便配達』の4Kレストアが終わりました。色彩は理想通りに回復しましたか?

 霍 当時、とても真剣に撮影し、ポストプロダクション(撮影後の編集・加工)段階でまた一つ一つ非常にきめ細かく明るさを調整しました。『山の郵便配達』という作品は当初、とてもしっかり色合いを調整し、色調と作品の感情がぴったり合っていました。今回の4Kレストア後、基本的にはもともとの感覚にたどり着けましたし、一部では色彩がよりよくなったかもしれません。4Kレストアの大きな意義は作品の保存です。フィルムは時間の流れに伴って温度や湿度の影響を受け、質がどんどん劣っていきます。4Kレストア後、作品の画質は少しよくなり、より長く保存できるようになりました。

『山の郵便配達』4Kレストアの前(左)と後(右)の対比

 

 ——デジタル映画はフィルム映画と比べ、製作面ではより大きな発展の余地がありますが、表現面では異なる部分があるかもしれません。私たちは今日、フィルム映画のノスタルジーに対する追憶にも直面しようとしているのではないでしょうか?

 霍 フィルム映画はぜいたくな方式です。フィルム時代は過ぎ去りましたが、デジタルで撮影したものはフィルムのあのしっとりした境地には到達しようがありません。あのしっとりした空間は言葉ではっきりとは言い表せません。

 ですが、今日のクリエーターにとってデジタルは確かにとても簡単です。私たちのころは5本の大根で料理を作るほかありませんでしたが、今では500本の大根で料理を作るということと同じです。量が増えて繰り返し作れるので、簡単になりました。

 しかし問題の所在は、時代的な要因によって文脈、習慣、若者の好みの全てに変化が起き、そのために表現方式にも変化が起きたという点にこそあります。(簡単に製作したデジタル作品は)時にはとても金になりますが、わたしたちの感情を動かせません。こうした変化は時代と関係があり、私たちの経済社会の発展と関係がありますが、映画自体とは何の関係もないと私は考えています。

 時代は変わりました。以前は表現それ自体が難しいことでした。私たちのころは映画を見るのに資料室へ行く必要があり、見るたびに興奮して仕方がありませんでしたから、学生時代に大量の映画を見られたことは特に幸せだったと思います。でも、今では指先を動かすだけでスマートフォンに映画が再生されるようになりました。見たいと思ったらすぐに見ます。発表のハードルも下がりました。全ての年代は異なっていますし、全ての年代にはその限界性があります。ある時代に別の時代のものを追求する必要はありません。誰にせよ私のような体験がないのなら、私のような表現方式にこだわるとは限りません。実際のところ、自分の時代で最も優れたことを達成すれば良いのです。

(まとめ=袁舒、写真提供=霍建起)

 

関連文章