「友好こそ中日の正しい選択」在日76年の韓慶愈さん

2019-06-14 10:46:52

王衆一=文

 中日交流事業に尽力してきた老華僑の韓慶愈さん(93)は2018年秋、家族の付き添いの下、妻である韓美津さんの遺灰を持って北京・居庸関近くの共同墓地「懐思堂」を訪れた。かつては伊東美津といい、70年近く困難の中で助け合って暮らしてきたこのパートナーを、以前から気に入っていた墓に丁重に葬った。また、19年の暮春には、原籍地である山東省膠南(現山東省青島市黄島区)に帰り、祖先を祭るという長年の宿願を果たした。日本で76年生活してきたこの老大人はどのような非凡な人生を送ってきたのか? 祖国にどのような捨て難い感情を抱いているのか? 中国と日本の間でどのようなかけがえのない役割を果たしてきたのか? 韓さんはこのほど北京で本誌の単独インタビューに応じた。


韓慶愈さん
戦時下に17歳で日本留学
 

 1943年、17歳だった韓さんは黒龍江省青岡から茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高校)に留学した。運命を変えた生活はここから始まった。45年8月初め、中国東北地方へ引き返そうとした韓さんが乗った貨物船は、朝鮮半島の羅津付近で日本に引き返した。この時、ソ連が日本に宣戦布告し、すでに中国東北地方に進入していたからだ。8月15日、船が敦賀港に到着しようとしていたころ、韓さんは船上の雰囲気から日本が敗戦を受け入れる兆候を強く感じた。こうして漂流の途上で韓さんは歴史の転換点を迎えた。 

 「下船してすぐ、私たち中国が勝ったのだと知りました。当時、自分の祖国に帰り、微力を尽くして祖国のために奉仕したいとひたすら思っていました」。長年にわたって亡国の民となっていた東北の青年の暗い影がすっかり払いのけられ、韓さんは全ての中国人と同じように国家回復の喜びに浸った。ところが日本の敗戦後、中国行きの船が途切れてしまった。厳しい現実によって、彼はまず生活問題を解決しなければならなかった。「日本の敗戦直後の45年から46年にかけ、生活はとても苦しかったです。私は生活のため、台湾同胞が45年10月25日に創設した新聞『国際新聞』の仕事を見つけ、東京で各種の取材を通じて記者の技術を学び始めました」 

 韓さんは極東国際軍事裁判(東京裁判)の現地報告を行った。また、祖国から来た著名作家の冰心さんも取材した。48年4月には東京工業大学に入学し、国際新聞の記者を兼職しながら忙しい勉強に没入した。進歩的思想の影響を受け、この時から留学生の反内戦運動に参加するようになった。

 

廖承志が華字紙創刊託す

 

 49年10月1日に中華人民共和国が成立したというニュースが日本に伝わり、中国留日同学総会は祝電を打ち、華僑団体は新中国成立祝賀大会を開催した。「祖国の新生で私たちは喜び勇みました。同時に、日本の講和は必ず新中国が参加した全面講和でなければならないと打ち出しました」。当時の情勢を思い起こし、韓さんの両目には感激の光が瞬いた。新中国の成立は韓さんの運命を再び変えた。

子どもを抱く韓さん(右)と妻の美津さん(左) 

 韓さんは51年3月、共通の志向を持っていたことから、仲立ちを経て同年齢の日本人女性、伊東美津さんと仲むつまじい夫婦になった。「彼女はもともと日本文学を勉強していて、その過程で中国文化を非常に尊敬し、日本の文化と文学は中国の豊かさから来ていると考えました。そのため、日本文学をしっかり学ぶには必ず中国語を身に付け、中国の文化を理解しなければいけないと思っていました。結婚後、彼女は引き続き東京の中国語学習班で勉強し、後にとても流暢に話せるようになりました」。韓さんは結婚後、彼女に中国籍を取得するよう提案した。当時の韓さんの構想では、2人はすぐに中国に戻って定住する可能性があったからだ。「結婚後に私が美津を連れて中国に帰ることを彼女の母も同意していましたから、中国語をしっかり勉強するよう彼女を懸命に励ましました」。この時、美津さんは夫の姓に従って韓美津さんに改名した。長らく病床に伏せていた美津さんが18年に亡くなるまで、2人は70年近く愛し合い、守り合った。 

 情勢の進展に伴い、韓さんの運命は再び転機に差し掛かった。3年余り続いていた朝鮮戦争は53年にようやく休戦した。中国は多くの日本人を送り返し、在日華僑も次々と故郷へ戻った。韓さんも本来、祖国に帰って新中国建設に参加する予定だった。彼は53年6月末、引き揚げ船「興安丸」に乗り、500人以上の中国人同胞を天津まで送った。7月2日、華僑事務委員会副主任だった廖承志は彼と接見し、今後の予定を尋ねた後、予想外の要求を持ち出してきた。「引き続き華僑のために奉仕するべきだ、記者をしていたそうだから東京で華字紙をつくる任務を担ってほしい、と廖承志さんは言いました」

 

訪日団を通じて人脈築く

 

 韓さんは後に引けず承諾し、東京に戻るとすぐに各方面の華僑の援助を受け、新聞の設立を準備した。54年3月1日、在日華僑の心血を注いだ華僑新聞『大地報』が創刊された。この華僑新聞は、53年に廖承志の指導の下で創刊された日本語月刊誌『人民中国』と共に、中日両国の民間、祖国と華僑をつなぐ重要な情報の懸け橋となった。「『文革』期に間違った妨害を受けて閉鎖されるまで、私は『大地報』の編集を15年間担当しました。当時、私たちの主な報道の出所は中国国内の情報を整理して編集したものでした。趣旨は非常にはっきりしていました。それは社会主義の祖国を愛し、愛国華僑を団結させ、台湾解放を目標とする祖国統一を推し進め、中日友好の強化を促すというものでした」。韓さんの仕事は新聞発行だけではなかった。「ほかに(中国向けの)雑誌『日本工業技術』も発行し、戦後の日本の新しい工業技術に関する資料を編集翻訳しました。中国国内の国際貿易促進委員会に属する技術交流部が、私たちの出版物を中国の各企業や各研究機関に発送する役割を負い、中日技術交流に積極的な役割を果たしました。こうした方式を通じ、間接的に祖国建設を支援でき、とても達成感がありました」

54年3月1日の『大地報』創刊号

『大地報』事務所のスタッフ 

 この間、韓さんは祖国からの訪日団受け入れに何回も関わった。「54年の中国紅十字会代表団は初めて訪日した祖国の代表団でした。当時、日本全国の華僑が沸き立ち、各地区の華僑代表者が東京に駆け付けて祖国の仲間を歓迎しました。団長は衛生部部長(大臣に相当)、中国紅十字会会長の李徳全さん、副団長は廖承志さんだったと記憶しています」。韓さんは当時、記者として東京からずっと同行取材しており、回想してしきりに感情を高ぶらせた。「日本は当時、中国の協力で在中国日本人の帰還が成功したことに感謝するため、日本赤十字によるあのハイレベル代表団招待に同意しました。私たちが車で大阪から京都に向かう1時間の道のりでは、沿道を埋め尽くした人たちが赤十字の旗を振って歓迎してくれました。その状況には感動しましたし、忘れられません」。韓さんはこの訪問の過程と歓迎の様子を『大地報』の丸1ページを使って報道し、廖承志に強い印象を与えた。これ以降、中国の代表団が訪日するたびに廖承志は華僑総会に連絡し、韓さんを通訳として同行させたいと伝えるようになった。「55年以降、中国から来た団体は全て私が通訳しました」

54年11月の中国紅十字会代表団の訪日期間中、東京で日本の友人と交流する廖承志(左から3人目)

47年、韓さんは記者として作家の冰心さん(右から5人目)を取材した。55年に冰心さんは中国平和代表団メンバーとして訪日し、韓さんが通訳した。 

 こうして55年から66年までの11年間、韓さんは中国の40以上の団体に応対する過程で、多くの重要な歴史的瞬間を目撃し、多くの重要人物と知り合い、彼らを通じて新中国の日進月歩の発展と変化を理解した。「55年に祖国から来た最初の貿易代表団に応対し、孫平化さん(後の中日友好協会会長)、康大川さん(『人民中国』初代編集長)、陳抗さん(後の初代中国駐札幌総領事)らと知り合いました。56年には梅蘭芳さんを団長とする中国訪日京劇代表団の受け入れに関わりました。58年の第4回中日民間貿易協定交渉の時、呉学文さん(新華社記者)ら中国メディアの人たちと知り合いました。61年には、巴金さんを団長とする中国作家代表団の受け入れに関わりました。63年、日本での『人民中国』発行10周年を記念するため、当時の羅俊・中国外文出版社社長(外文局局長)が団体を引率して訪日し、私たちは親密に付き合い、友人になりました。私たち海外華僑は常に祖国の発展に関心を持っています。代表団との接触を通じ、非常に多くの祖国の成果を理解しました。私を驚かせ、感動させたのは、長春に最初の自動車製造工場ができ、解放ブランドのトラックを生産したことです。国産トラックの写真を見て本当に感無量でした。その後、武漢長江大橋が高々と架かりました。長江には橋を架けられないという世界の橋梁専門家の見方を打破したのを見て、いっそう気持ちが晴れ晴れしました」


56年の中国訪日京劇代表団団長の梅蘭芳さんと韓さん

 

「文革」でも初志変わらず

 

 このような良い情勢は「文革」で挫折し、『大地報』は中国国内からの指示を受けて発行を止められた。しかし、祖国と心でつながるという韓さんの初志は全く変わらなかった。中日交流事業の大切さを確認し、『大地報』の同僚たちを率い、モデルチェンジして向陽社を設立した。「新聞の発行は止められましたが、私たちは引き続き雑誌を作り、中国に向けて日本の工業、技術、企業を紹介しました。中日貿易を促進するため、多くの仕事をしました」

仕事中の向陽社の同僚たち 

 70年代初めの中日国交正常化直前、日本は非常に中国に注目し、多くの企業が中国との貿易や技術交流を望んだ。これにより、向陽社の業務は絶えず拡大した。中国語辞典の編集、中国語電報を打つための文字コード集の出版、中国語の活字盤の輸入など、業務を拡大して利益を増やした。 

 72年の中日国交正常化で韓さんは再び新たな希望を感じた。「以前知り合った友人で中国大使館文化参事官の陳抗さんが私に会いに来て、中国国内では今、日本語関連の仕事をする日本人専門家を必要としていて、特に外文局の『人民中国』がこの分野の人材を大至急必要としていると言いました。『奥さんは中国語があれだけ上手なのだから、中国に行って働こうという気持ちはありませんか?』と。美津に意見を聞くと、喜んで同意しました。外文局局長で私の古い友人の羅俊も、美津が中国で働くことを歓迎してくれました。海外華僑の家族なので、中国国内の同僚の待遇を与えたいとも言いました。こうして美津は『人民中国』で働く唯一の中国籍の日本人になりました。日本人専門家ではなく、中国籍編集スタッフです」

 

科学技術や品質管理でも交流

 

 78年8月に中日平和友好条約が締結され、中国は間もなく改革開放の時代に入った。そのころ日本ではファクスが広く使われるようになっていた。電報のやり取りで引き起こされる中日経済交流のボトルネックを解決するため、韓さんは日本のファクスの技術を中国に紹介するようメーカーや電話局などに働き掛けた。「78年4月、私は日本の専門家グループを組織し、北京などでファクスの技術を紹介しました。同時に、この技術の試用について中国電話局と相談しました。実際のところ、中日間で正式にファクスを使い始める1年前には、向陽社北京事務所との間でファクスを使って業務をしていたのですが。翌年、中国政府は正式にファクスの業務を許可し、中国と世界の通信効率を大幅に向上させました」 

 78年秋、フランス文学者の中島健蔵氏を会長とする日中工業技術文化センター(現日中科学技術文化センター)が設立され、向陽社の主導で科学技術交流活動を繰り広げた。韓さんは同センターの専務理事に就任した。この組織は82年、旧科学技術庁に社団法人として認可された。


78年4月、上海で見学・交流活動を行う日本ファクス技術企業交流団 

 韓さんは中日交流を推進する過程で、日本が米国の品質管理の概念を導入し、日本の国情と結び付けた品質管理システムを構築しており、それが将来の中国に潜在的な価値を持っていることに気付いた。韓さんは日本の専門家に依頼して向陽社の雑誌に記事を書いてもらい、品質管理の総論から化学工業、自動車、機械などの各産業の品質管理理念まで、2年がかりで体系的に紹介した。78年夏、韓さんは専門家団体を組織して訪中し、北京や天津などで中国企業の中心的な人々と交流した。その後、日本の品質管理方法の学習が各地で始まり、間もなく全国的な範囲で普及した。改革開放初期の努力が今日大きな成果を上げているのを見て、韓さんはますます満足を感じている。「現在、私たち中国の製品は日本市場でも通用し、世界各国にも輸出されています。主に私たちの製品の品質が基準に達したということです。日本の基準はとても厳格ですが、日本の商店に行くと日用品の70%は中国製品です。私も良いことができたのではないでしょうか」


78年8月、「品質管理の父」と呼ばれた石川馨氏を団長、韓さんを事務局長とし、洛陽で見学・交流活動を行う日本品質管理技術交流団

 

『鉄腕アトム』で日本CM

 

 韓さんが当時行った良いことはこれにとどまらなかった。79年、上海広告公司は外国の広告を受け入れると正式に発表し、韓さんは商機を見いだした。「私が素早く動けたのは早くから経験があったからです。『文革』前年の65年、私の取り次ぎにより、オリンパスの顕微鏡の広告が北京の『大公報』に掲載されました。これは当時の中国で外国の広告が掲載された唯一の例です。後に『文革』が始まり、上海広告公司は業務を停止しましたが、彼らは79年に業務を再開しました。私は真っ先にこのニュースを知り、すぐに上海に人を派遣して契約を結び、中国に向けて日本の広告のあっせんを始めました」。努力を経て、東芝や三菱、日立、日本精工など、非常に多くのメーカーが中国の主要紙で全面広告を掲載し始めた。これは中国で初めてのことで、向陽社も日本で注目を集めた。1年余り後、当初はやや自重していた『人民日報』もさまざまな制約を打ち破って向陽社と広告業務を始め、日本企業の全面広告を掲載した。「活字メディアを攻め落とし、続いてテレビ広告の機が熟しました。60年代以降の幅広い人脈を頼りに、繰り返し努力を重ね、ようやく80年に中国中央テレビ(CCTV)を説得して広告業務を引き受けさせました。アニメ『鉄腕アトム』で日本製品のCMを流すというモデルでした。これ以降、毎週日曜日のゴールデンタイムの一番良い時間帯に30分間の放送時間をくれました。当時、町じゅうの人がアトムを見るという壮観な眺めをつくり出しました」。これ以降、アニメにCMを付けるという韓さんのモデルは続き、数年のうちに『ジャングル大帝』『ニルスのふしぎな旅』『母をたずねて三千里』などがその時代の人々の記憶となった。「私はCCTVの発展に一定の貢献を果たしたといえるでしょう。北京メディアセンターはこれらの広告料で建てられました」


86年に上海テレビが放送した「カシオ杯家庭歌唱グランプリ」の出場者 

 後になって韓さんは戦略を変えてまた上海の広告市場に参入した。日本ののど自慢大会の形式を模倣し、庶民に直接参加させて歌を歌わせ、広告となる賞品を配るよう韓さんは提案した。カシオは喜んで電子オルガンを賞品として提供し、上海テレビも広告料を受け取った。「この番組はすぐに人気が出ました。番組に出場した歌い手が後々日本で成功し、日本でも一定の影響力があったことを覚えています。この広告の効果は高く、収益もとても理想的でした。当時、上海広告公司の従業員が受け取っていたボーナスは3万元でした! 考えてみてください、80年代では天文学的な数字です。後の上海衛星テレビ(現東方衛星テレビ)の開設には、この広告収入も大きな役割を果たしました」と韓さんは得意げに話す。

 

朱舜水で両国の都市結ぶ

 

 韓さんは華僑の中で非常に声望が高く、80年代には華僑総会副議長を務めた。近年は高齢のため、多くの職位から退いた。しかし、中日の友好と交流、祖国の平和統一は最も重要な事柄として常に考えており、彼は多くの活動に奔走している。01年夏、世界各地の華僑が東京で世界華僑華人中国平和統一推進大会を開いた。韓さんは大会の議長の一人で、活動報告書の宣伝出版を受け持った。「現在の華僑総会の対外活動の一つは日本の各団体との友好的なつながりを強化し、中日友好を促進することです。私も常務理事としていつも活動に参加します。ほかには祖国の平和統一の促進です。現在は平和統一促進会の常務理事から退きましたが、まだ顧問を務めています。一日も早く祖国の平和統一を見られることを望んでいます」


01年の世界華僑華人中国平和統一推進大会で、共に大会を取り仕切った韓さん(中央)と香港代表の黄企之さん(左)、台湾代表の陳鵬仁さん 

 韓さんは茨城県常陸太田市に独特の感情を抱いている。これは韓さんが長くこの都市に住んだという理由だけでなく、この都市とつながりのある中国人とも関係している。明末の儒学者の朱舜水は江戸時代に德川光圀の招きで江戸を訪れ、教育や文化、生産などの分野で明代の思想を伝えた。彼の遺骨は常陸太田市の水戸徳川家墓所(瑞龍山)に納められた。韓さんは自分の第二の故郷に対する感情を行動に移した。「当時の渡辺龍一市長は私の同級生でした。私たちは常陸太田市と朱舜水の故郷である浙江省余姚市を友好都市にするよう相談しました。一緒に5年間努力し、99年に二つの都市は正式に友好都市関係になりました。私の提案により、12年に二つの都市は余姚市で朱舜水学術シンポジウムを共同で開催しました」


99年に開催された常陸太田市と余姚市の友好都市締結祝賀会

 

互恵は両国にとって福音

 

 陸路で通じていなかったため、一衣帯水の関係はかつて彼と祖国を切り離していた。このため、祖国が「一帯一路(シルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロード)」構想を打ち出したと聞いて韓さんは大いに賛同し、日本もここから孤立するべきではないと考えた。「例えばアジアインフラ投資銀行(AIIB)に日本はまだ参加していません。私たち日中科学技術文化センターの理事長は以前2回記者会見し、AIIBに参加するよう日本政府に呼び掛けました。日本の元国連大使も会見に参加しました」。生きている間に日本と中韓の間に海底トンネルの建設を促すという青写真を韓さんは持っている。「日韓海底トンネル研究会は早くも83年に成立し、目下のルートは福岡から対馬を経て韓国の釜山に至ります。海底トンネルなら東京から北京まで高速鉄道でわずか10時間で着きます。もしこのプロジェクトを立ち上げ、完成させれば、日本は第三国市場協力だけでなく、『一帯一路』に直接参加できるようになります。シルクロードの東の終点は日本ですよね。もしこの青写真を実現できれば、日本と中国のいっそう頻繁な交流によっていっそう大きな経済効果を生み出せます。私は中国がよくなることを望んでいますし、日本にもよくなってほしいと思っています。この二つの国は兄弟です。古代の日本は中国から多くの文化を吸収しました。中国も改革開放で日本から多くの先進的な技術を導入しました。ですから、友好こそ中日両国の唯一の正しい選択なのです」
 近年、多くの中国人観光客が日本を訪れ、一部の観光客の素養が日本社会の反感を呼び、ひいては日本のある週刊誌が「入国審査で中国人観光客を制限し、拒否する必要がある」といった極端な主張を打ち出した。13年4月、病気で入院していた韓さんはこれらの報道に心を痛めた。彼は古い友人の張可喜・元新華社東京特派員、賈蕙萱・北京大学教授らに連絡し、翌年6月に「東方文明振興会」を創設し、中国人の素養を高め、海外での祖国のイメージを高めるために呼び掛けることを決意した。


19年3月20日、北京で会議を開いた東方文明振興会の代表 

 あと数カ月で新中国は成立70周年を迎える。日本で70年以上祖国を見守ってきた老華僑として、韓さんは自身の経歴を拠り所に、心の底から次のように展望を語った。「中国共産党の指導する祖国・新中国が成立してから私はずっと日本で生活しています。祖国の70年にわたる日の出の勢いの発展により、外国人は中国をいっそう尊重するようになりました。祖国が引き続き発展し、過去のいかなる時代も超越するよう望んでいます。私たちは戦争や略奪ではなく、平和的な方法や貿易、経済、対等な交流によって隆盛を実現します。中国の伝統的な理念が私たちを未来の発展へと導くでしょう。互恵は中日両国にとって福音です。その時には私たち華僑はいっそう現地の人々の尊敬を受けられるでしょう。私は毎日とても喜んで祖国の発展と進歩を見守り、祖国の未来を祝福しています」


19年、原籍地の山東に帰り、故郷の年長者を訪ねた韓さん(左から3人目)

 

 

人民中国インターネット版 2019529

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