私の中日学術交流記(下) 学び教え伝えた生涯に誇り

2023-05-22 15:34:00

孫昌武=文・写真提供


筆者(中央)の歓迎会を開いてくれた京都大学人文科学研究所の元所長で、当時は花園大学禅文化研究所の所長だった柳田聖山教授(右から2人目)と夫人(右端)。左端から、親しかった衣川賢次教授と伊藤正文教授

1989年1月、私は京都大学人文科学研究所から外国人研究員として招請された。任期は半年。この職に就くのは外国人学者にとっては大変名誉なことだ。この招請は小南一郎教授が推薦してくれたおかげだった。 

神戸大学で教えていたとき、すでに小南教授とはよく知る仲だった。小南教授の研究成果と真剣に仕事に励む姿に、私は大変感心していた。その研究分野は幅広く、中国古代史から、『詩経』と並ぶ中国二大詩集の『楚辞』や敦煌学、古典小説まで及んだ。また教授は、中国の伝統的な文献考証の手法と西洋の構造主義や民俗学、宗教学、文化人類学などの理論と手法を結び付け、幅広い分野での研究を進め大きな成果を上げていた。 

小南教授は、私が翻訳した彼の大著『中国の神話と物語り―古小説史の展開』の中国語版に、以下のような序文を寄せてくれた――「孫教授は中国の中世期における知識人と宗教の関係に着目し、とくに一般の民衆階層の宗教信仰について大きな関心を寄せてきた。私たちは宗教を迷信として一切排除するのではなく、理論面から、また方法論としても宗教文学史というこの分野をさらに深く掘り下げていくことを期待している」。こうして、私たちは共通の興味と研究の分野でさらに友情を深めた。 

小南教授が中国社会科学院文学研究所で研修していた87年、彼の性格をよく表す興味深い出来事があった。ある日、小南さんは北京から天津の私が勤める南開大学を訪ねてきた。天津駅で下車し、大学にはちょうど正午に着いた。小南さんは大学のキャンパスは不案内だったが、人に道を聞いて面倒をかけるのも申し訳なく、長いこと自分で探し続けた。しかし、結局私の居所は分からず、仕方なく帰ることにした。北京行きの列車は天津西駅から出るので、小南さんはまた散々苦労して西駅にたどり着いたのだった……。後日、小南さんは北京から電話を掛けてきて、「貴兄を訪ねるつもりでしたが、天津の駅をよく知るために行ったようなものでしたね」と言って笑った。小南さんの真面目で誠実な人柄がよく分かるエピソードである。 

私も北京に小南さんを訪ねていったことがある。そのときは、小南さんを連れて中華書局編集長の傅琮氏と会った。そこで私は傅氏に、小南さんの著作『中国の神話と物語り―古小説史の展開』を紹介した。傅氏は興味を持ち、誰か翻訳者を探すよう私に頼み、中華書局からの出版を引き受けた。しかし、同書の内容は大量の中国古代の書籍や仏教道教二つの経典文献にわたっており、日本語の専門家に頼んでみたが、大変難しいと言われた。 

私の日本語レベルは、専攻した人とは比べものにならない。だが、同書を深く読み込むことで内容をしっかり理解できたと感じたし、小南さんが伝えたいことも分かった。私も古典文学の研究者であり、中国語の学術用語を駆使して伝えることには自信がある。そこで頑張ってやってみることにした。 

また同時に、私はこの本の翻訳が小南さんとより交流を深めるきっかけになると考えてもいた。88年の初め、小南さんから手紙が来て、京都大学人文科学研究所に半年間の訪問研究に来ないかと打診してきた。私がこれを引き受けたのも、京都に行けば直接小南さんに翻訳の難しい部分を聞ける、というのがその理由の一つだった。その後、翻訳は立派に仕上がった。 

衣川さんと『祖堂集』で協力 

私は長年、唐代の文学を研究してきた。また、仏教との相互作用に注目し、いくつかのテーマについては深く研究し、国内外の学術界にある程度の影響を与えた。神戸大学で教えていた頃、文学部長の伊藤正文教授には特に配慮を受け、なるべく講義のコマ数を少なくし、自分の研究に打ち込む時間を多く作ってもらった。これはその後、私が宗教文化と文学の研究、著書執筆の範囲を広げる面で大いに役立った。 

その中で、衣川賢次教授と知り合い、日本における禅学研究の第一人者である柳田聖山教授を紹介されたことは、実に得るところが大きかった。日本に行くたびに私は柳田教授の元を訪れて教えを請い、親身になって助けてもらった。柳田教授からは、図書資料や研究著作の寄贈を受け、これらは研究における難解な問題を解決する助けとなった。 

京都の花園大学の衣川教授は中国の古典文学が専門で、中でも力を入れていた研究分野の一つが禅宗だった。私が神戸大学で教えていた頃、衣川さんは京都大学の博士課程の研究生だった。私の中国古典文学の講義のたびに、彼はいつも聴講にやって来た。京大と神戸大は往復で4時間ほどかかるが、彼の勤勉で学問好きな姿勢には大変感銘を受けた。帰国後も彼とずっと連絡を続け、それが後日、禅宗の古典『祖堂集』を協力して校訂するきっかけとなった。 

この『祖堂集』は、五代時代の呉越国の泉州(現在の福建省にある)招慶寺の静との二人の禅僧によって保大10(952)年に編集成立した全20巻で、現存する最も古い完全な禅宗の語録史書だ。中国では長く失われていたが、20世紀初めに韓国慶尚南道陝川郡の伽耶山海印寺から、同寺が収蔵する仏教の経典『八万大蔵経』(木版)に付属する木版として発見された。『祖堂集』は、中国仏教史、中でも禅宗史研究の第一級の資料である。また歴史学文学、特に言語学などの分野で重要な価値を持ち、発見後たちまち各国の学界から幅広く注目され、次第に一つの学説を成すに至った。 

1980年代以降、中国では海印寺唯一の木版印刷に基づいたという数多くの複製本が出回ったが、いずれも満足できる出来栄えではなかった。そこで中華書局は、この重要な古典に校訂を加えた上で、より精緻に調べ直して出版することにした。さらに中華書局では、おそらく私が古典文学科の出身であることや、書局のために『観世音応験記』などの仏教古典を校訂したことも考慮し、この仕事を私に依頼してきた。私はこの仕事の難しさを重々承知していたので、熟慮を重ねたが、最終的にはこの挑戦を受け入れることにした。 

この作業を始める前、柳田さんには『祖堂集』に関する重要な論著があり、『祖堂集索引』の編集もされていることを思い出した。衣川さんは柳田さんの門弟で、日本の禅宗史研究において新進気鋭の学者だった。そこで私は、衣川さんに『祖堂集』に関する資料の収集をお願いしようと手紙を書いた。すると衣川さんは自ら禅文化研究所の研究者に連絡し、私と一緒に『祖堂集』の校訂を行っても良いと、すぐに返事を送ってきた。私は中華書局の同意を得た後、衣川教授と相談して、私と彼と禅文化研究所の西口芳南教授の3人が協力して『祖堂集』の校訂を行い、校訂と最終稿の監修は私がまとめて責任を負うことにした。 

私たち3人は、『祖堂集』の校訂の計画について、ある「意気込み」を持っていた。それは、単に精緻な校訂を行うだけでなく、できるだけ『祖堂集』研究についての資料を提供し、この本を全面的で充実した初期の中国禅宗史に関する一冊の参考書にしよう――と考えたのだった。この課題には、両国の学者がそれぞれの強みと、中日の禅宗研究の長所を生かす必要があった。 

20巻のうち、事前に相談して決めたスタイルに従って、まず私が第1、2の両巻を書き、真剣な討論を経てサンプル原稿を作成した。その後、衣川さんは第3~11巻、西口さんは第1220巻を書いた。最後に私が校訂して決定稿をまとめた。このうち、各部分の伝記資料は基本的に中国語の文献なので、私が検索や収集、入力を行った。禅僧のそれぞれの問答に関する資料の収集、整理は衣川西口の両氏が行った。 

衣川教授は、一つの文字一つの句読点に対しても入念に校訂を行った。意見が異なる場合、私たちは繰り返し討論し、どの章節も何度も修正を行った。そして、ついに内容に富み校訂も正確な『祖堂集』の校訂本が出来上がった。これは国内外の学者から高く評価され、また光栄にも中国の国家古典整理二等賞を受賞した。中華書局は何度も増刷し、今では世界に共通の定本となっている。 

私の長年にわたる禅宗研究を著した『禅宗十五講』は2016年、『中華読書新聞』が毎年選定する「その年の10大良書」の一つに選ばれた。衣川さんはこの本を邦訳したいと申し出た。そのために衣川さんは多くの時間と労力をかけてくれた。その素晴らしい学識は、訳書の質の高さと学術的な価値を保証するだけでなく、拙著に対しても大いに面目を施してくれた。中華書局と東京東方書店の支援を受け、07年、衣川教授による日本語訳『禅についての十五章』が出版され、日本の読者からも歓迎された。 

私は日本語版の序文にこう書き寄せた――私の研究領域の一つは宗教文化で、禅宗についてもいささか力を注いで来た。1980年代、いくつかの大学で講義を担当し、研究を進める中で、幸いにも中日学術交流の一端を担うこととなり、さらにはその後数十年間、日本の学界の傑出した諸先輩方や研究者たちと面識を得て、その著作を拝読し、参考にさせていただいた。また心温まる指導と無私の援助を得ることができた。中でも仏教学者の故入矢義高、故柳田聖山両先生の学恩は忘れがたい。拙著は日本の学界の諸先輩方と友人の研究成果に多く負うものがあり、日本語版の出版に際し心より感謝を申しあげたい。(後略) 

松浦さんとの貴重なひととき 

早稲田大学の松浦友久教授は、中国の「詩語」の研究で多くの新たな成果を上げた。松浦教授は、比較詩学と構造主義などの考えと手法を参考に、詩歌作品テキストの基礎としての「詩語」と「イメージ」など芸術表現の規則性の問題について研究した。著書の『中国詩歌原論_比較詩学の主題に即して』は、その研究成果の結晶である。 

私は神戸大学で教えていたときに早稲田大学を訪れ、松浦さんと知り合い、この本を贈られた。それを読むと、松浦教授の中国の古典詩歌研究の角度、考え方ともに非常に斬新で、その結論は、中国の古典詩歌芸術の根底にあるものを明らかにし、独創的な見解に富んでおり、すぐに翻訳を願い出た。同書の中国語版は1990年、遼寧教育出版社から出版された。 

当時、日本の学者が著作を中国で出版することは多くなかった。93年に台湾の洪葉文化事業社が版権を借りて繁体字版を台湾で出版し、同書の影響はさらに広がった。 

松浦さんは89年に南開大学で研究活動を行ったが、私は招請を受けて京都大学にいた。私は帰国後、ホテルに彼に会いに行ったが、ちょうど荷物をまとめて日本に帰国する準備をしているところだった。いとま乞いをしてホテルを出ると、乗ってきた自転車が見当たらない。すると松浦さんは、自分の自転車を私に譲ってくれたのだった。以来、その自転車を乗り続けて30年以上になる。 

松浦教授は97年、私を早稲田大学での半年間の訪問研究に招いてくれた。しかも大学側に掛け合って、私のために近くの西早稲田に広くて設備もそろっている高級マンションを借りてくれた。このときは早稲田で松浦さんと多くの時間を一緒に過ごした――研究成果を話し合ったり、学術情報を交換したり、学問上の問題を討論したりと、とても打ち解けた楽しい時間だった。 

松浦さんによると、日本の「中国学」は戦前から「京都学派」に牛耳られており、基本的には中国の「清学」の伝統を引き継いでいる。その成果は主に文献考証の学問であったが、戦後は研究者も研究内容も大きく広がったという。また、東京の各大学の関連分野での成果と貢献についても取り上げた。長年に及ぶ日本の学界に対する私の理解では、彼のこうした見方にはなるほどと思うものがあった。例えば、松浦さんが代表する早稲田大学の「中国学」の研究は目覚しい成果を上げ、日本の中国学界で重要な地位を占めていた。 

悲しいことに、私は帰国後、松浦さんが重い病を患っていると聞いた。いろいろ手を尽くしたが、残念ながらお亡くなりになった。松浦さんが亡くなった後、彼の友人や学生が記念文集を作ったので、私も悲しみをこらえて思い出を書き送った。多くの方々の努力により松浦さんの4巻の論文集が編集出版され、皆にとって大切な記念となった。 

これまでの生涯を振り返ると、84年に神戸大学に客員教授として派遣されてから、京都大学人文科学研究所と早稲田大学に外国人研究員として2度の勤務を経験。また日本で開かれた国際的な学術会議にもたびたび参加したことで、私は日本の学術的な成果を深く知り、日本の学者とも広く、また深く学術交流をすることができた。私は特に中国の仏教や道教の文化と文学の研究をしているが、日本はそのいずれもしっかりとして豊かな学術的基礎を持っている。私は日本の学者の研究成果を真剣に吸収し、参考にして自分の研究活動を進めただけでなく、これらの分野における中国の研究レベルも高めた。 

ここで、私は特に日本の学界の友人たちの厚意と援助に感謝したい。日本で教えていた期間、熱心に中国文学文化を学ぶ日本人の学生を育てた。中にはその後、中国の学術や文化を研究し伝える著名な学者に成長し、中日両国の交流に貢献している人もいる。これら全てが、私の生涯にわたる学術活動の中で大変価値があり、また意義深く、思い出して語るかいがある人生の最も大切なものとなった。 

関連文章