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周恩来総理(写真提供・新華社) |
周恩来総理生誕110周年にあたる今年、周総理のそばで長く仕えた秘書の銭嘉東さんと日本語通訳の王效賢さんから、周総理に関する文章をいただいた。これを3回に分けて掲載する――編集部
2007年は中日国交正常化35周年の節目の年であり、2008年は私たちが敬愛する周恩来総理の生誕110周年にあたる。この2つを結びつけ、周総理が生前に中日関係のために行なった多くの仕事や不朽の貢献を思い起こすのは、自然なことであろう。
周総理は偉大なるマルクス主義革命家、政治家、軍事家であり、傑出した外交家でもある。中華人民共和国の初代の総理として、周総理は毎日、政務は多忙を極めたが、終始、外交の第一線で活躍し、輝かしい数多くの成果を残した。中日関係はその中の一つである。
大所高所に立ち、未来に着眼
1949年10月1日、新中国が成立した。我が国は直ちに全世界に向け、中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府と承認するすべての国と、平等、互恵及び領土・主権の相互尊重などの原則のもとで、外交関係を樹立したい、と宣言した。
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1954年10月30日から11月12日まで、李徳全女史(中央の女性)を団長とする中国紅十字代表団が日本を訪問した
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しかし、当時の状況下では、中国と国交関係を結んだのは、主にソ連や東欧社会主義国や、植民地統治から逃れ、独立したばかりのいくつかのアジアの隣国だけだった。西側の国々は、いくつかの西欧と北欧の国を除いて大多数が新中国の承認を拒否した。とくに米国は、我が国に対し孤立化、封鎖、貿易禁止などの政策をとり、新中国を扼殺しようという敵対的態度をとった。それから22年後、内外の情勢に迫られてやっと現実を認め、新中国の門を叩きにやって来ざるを得なくなった。
日本に至っては、当時はまだ米国の占領下にあり、米国の命令に従うことしかできなかった。1952年、片面的なサンフランシスコ講和条約に調印し、翌年には台湾当局と「外交関係」を樹立し、違法な条約に調印した。こうした状況下で、中日関係は当然、正常化の条件が整っていなかった。
しかし毛沢東主席、周総理の指導の下で、我が国は、昔から往来を続けてきた一衣帯水の隣国の日本に対し、終始、然るべき重視と注目を払ってきた。私たちは短期間のうちにある程度の進展を見ることは期待せず、大所高所に立って未来に着眼し、両国関係は最終的には正常化すると信じていた。
日本人民と日本軍国主義を区別
中国の対日政策の中で、2つのことがとりわけ重要な意味を持っている。一つは、日本人民と日本軍国主義を厳格に区別することである。つまり、侵略戦争を起こし、中国やアジア各国の人民に巨大な災難をもたらしたのは日本軍国主義であり、日本人民もまたその被害者である、ということである。
もう一つは、過去の2000年の歴史と50年の歴史との関係を適切に扱うことである。つまり中国人民は一方で1895年から1945年までの50年間に、日本軍国主義の侵略に遭った歴史をしっかりと覚えているとともに、もう一方で中日両国の人民の間の2000年にも及ぶ友好往来の歴史を忘れてはならないということである。
周総理はこうした政策を定めた人であり、それを徹底的に実行した手本でもある。1950年代初め、日本から来た友人たちと会見し始めたときから、周総理は中国のこの政策を繰り返し彼らに説明した。
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夏衍氏 |
1953年9月、初めて日本の友人と会見した。平和擁護日本委員会の大山郁夫会長である。このとき周総理はこう述べた。
「日本軍国主義の対外侵略の罪行は、中国人民や極東の各国人民に巨大な損害をもたらしただけでなく、さらに日本の人民にも空前の災難を蒙らせました。日本の平和を愛する人々は、この歴史的教訓を心に刻み、日本が再び軍国主義化して、再び対外侵略をすることがないようにすべきであります。そうしてこそ日本が、過去と現在に蒙った災難よりもっと深刻な災難を再び蒙ることを免れることができると信じています。中国は日本と正常な関係を回復したいと願っています。しかし、日本政府は依然として、中華人民共和国と中国人民を敵視する政策を引き続き実施し、蒋介石集団とのいわゆる『外交関係』を引き続き保持しています。日本は太平洋における不安定要因となっており、それによって日本が新中国との講和条約を締結し、正常な外交関係の樹立するのを妨げています」
周総理はさらに「中日両国間の貿易関係は、平等互恵の基礎の上で築かれてこそ、広々とした未来があるのです」と述べた。
周総理の話は分かりやすく、深い意味を含んでいて、私たちの善意と誠意を十分に表していた。それはつまり、中日両国人民の根本的利益から出発し、アジアや世界の平和と安定に着眼し、中日関係を適切に処理するということである。
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