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老舎の中国に魅了されて

 

老舎の子息、舒乙さん(右)と談笑する筆者

榎本智子

1971年千葉県生まれ。2008年9月からは上海へ留学、国際経済を専攻する。 

正直、不思議である。どうしてここまで続いてきたのか。

私と中国の関わりの始まりは、18年前、大学一年生の第二外国語で中国語を選択したことであろうか。他の言語よりは漢字で親しみやすく、とっつき易いかなという程度で始めた。第二外国語の割には先生方も厳しく、授業数も多かったので、結構大変だった。

二年生終了時で、私はいったん中国語とは離れた。しかし、就職する直前の1995年2月、それまで海外旅行の経験の無かった私が一人で、北京第二外国語学院に1ヵ月間の短期留学をしたのだった。連れ回されるような旅行が嫌だったし、ゆっくりと一つの都市に滞在して、人々の生活を肌で感じてみたかったのである。

この留学が私を中国や中国語へと惹きつける契機となった。自分の中国語が少しでも通じた時の喜び、そして中国人のたくましさや明るさに触れた時の楽しさが、帰国後、中国語の勉強を続けていくことへの後押しとなった。

朝日中国文化学院で、私の十数年に及ぶ中国語の師となる陸潔(日本名 大山潔)先生と出会った。私が先生のもとで中国語を勉強するようになり数年が経ったころ、先生が、当時テキストとして使用していた老舎の小説をもとにした『戯曲 駱駝祥子』の日中対訳本を自費出版しようと提案した。7年近くかかったが、私たち(生徒3人と先生)は出版を実現した。さらにこの本の朗読CDまでも自主制作したのである。

この過程で、たくさんの中国人と知り合うことができた。中国で著名な戯曲脚本家である梅阡氏のご夫人や老舎のご子息、舒乙先生、そして録音に参加してくれた北京人民芸術劇院の役者さん、紹介しきれないくらい多くの中国人の協力をいただいたのだった。

彼らはみな多忙であるにもかかわらず、私たちの片言の中国語に耳を傾け、私たちを暖かく受け入れ、惜しみなく協力してくださった。このような方々がどうして私たちにこのように接してくれるのだろうと、正直、私は不思議だった。これは私たちが中国を思う気持ち、理解しようとする気持ち、『駱駝祥子』を思う気持ちが、彼らに伝わったからではないかと今は思っている。彼らもその機会に私たちを、日本人を理解しようとしてくれたのではないだろうか。

このような機会を通じて、もっと中国を理解したい、もっと中国人と気持ちを通わせたいとの思いが強くなった。そして一つの決心をした。13年余り続けた仕事からしばらく離れて、再度、今度は本格的に中国へ留学することにした。『駱駝祥子』で触れた中国文化とは異なる、現代の発展目覚しい中国を感じるために、今回は上海を留学先に選んだ。

上海では、中国独自の文化や経済の中に多くの異質なものが入り込み、新たなものがつくり出されている。上海でこれからどんなことに、どんな人に出会うのか、不安であるが、とても楽しみでもある。(文=榎本智子)

 

おすすめスポット
 北京の陶然亭公園。中心部から少し離れた穏やかな庭園。どの公園でも、朝6時ごろに行くと、健康のため体操をする人、唸り声をあげて歩く人、「毽子」という羽根を蹴って遊ぶ人、鳥を鳴かせる人など、本当にさまざまな人がいて、中国を感じられる場所であり、とても面白いと思う。

 

 

 

人民中国インターネット版 2009年3月26日

 

 

 

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