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僕の人生を変えたハンセン病快復村

 

日高将博(ひたか まさひろ)

僕と中国の関わりは、中国の歴史に興味があり、大学で東洋史を専攻したことに始まる。2005年に日本語教師のインターンシップで初めて北京を訪れ、多くの友ができた。実際に接した中国は、それまで抱いていたイメージとは全く違うものだった。

人生の転機となったハンセン病快復村を初めて訪れたのは、大学を卒業する直前の2008年3月。村は周囲と隔離された上に、住民の高齢化も進んでいた。話される言葉も方言で理解できなかった。言葉が理解できない僕は彼らに何をしてやれるのだろう……。そう思っていた僕に、彼らは「私たちは家族に見捨てられた存在。一緒にいてくれるだけでいい」と言ってくれた。僕には中国の山奥に大切な友人ができたのだ。

就職後も休暇を取っては、日本と中国の学生を引き連れて村に入り、建物の修理や掃除をしたり、日用品の買い出しに出かけたりした。そんな交流を続ける僕たち若者を見て、周囲に暮らす人々も少しずつ、ハンセン病への差別や偏見が薄れてきたように感じる。国籍を超えて、人と人との繋がりの強さを感じ、彼らと生活を共にしたいという思いが募り、昨年2月に会社を退職、NGO「家」の長期ボランティアを始めた。

村で出会った大切な人を紹介したい。広西チワン族自治区桂林市の小さな村から、さらに徒歩で3時間以上もかかる電気もない山奥の村に暮らす、90歳を超えた客家の「謝ばあちゃん」だ。足首が変形し、足裏にある傷口もひどいけれど、性格はとても明るく、よく笑う。「ばあちゃん」の子どもは別のところに住んでいて、経済的に余裕がないため呼び寄せて一緒に住むことができない。体が不自由なため、隣のじいちゃんにご飯を作ってもらい、傷の手当てをしてもらう。

「ばあちゃん」はご飯を食べる時、僕に「こっちに来て一緒に食べなさい」と言い、曲がった手でスプーンを持って自分の碗からすくってくれる。僕はきっと孫みたいなものなのだ。薄味が好きな「ばあちゃん」のご飯は、正直言ってあまりうまくない。けれども1口2口食べて、「うまい!」と僕が言うと、にっこり笑う。言葉はあまり通じないが、孫になれたような気がする。ある日、息子が村にやってくるとの知らせがあった。「ばあちゃん」は朝から息子の話ばかりしていた。でも昼になり、夕方になり、夜になっても息子は来なかった。その日、僕は「ばあちゃん」のそばを離れられなかった。

山奥や孤島に隔離され、誰も気にとめることがなかった多くの快復村。しかし、学生を中心としたワークキャンプの実施により、村が活気づき始めた。日本人と中国人、村人とキャンパーという枠を越え、一対一の人間関係を築くことができる。ボランティアをしているというよりも、大好きな人に会いに行くという感覚だ。僕はこの活動を一生続けていけたらと考えている。

湖南省のハンセン病快復村で、村人と筆者(中央)

1984年11月、福岡県の生まれ。立命館大学在学中に日中交流の大切さを感じ、広州の中山大学へ留学。日中交流イベントを企画・運営し、日本国際交流基金の「留華ネット」広州代表に。この時、NGO団体「家」の代表と出会い、帰国して名古屋に就職後も活動を継続。2010年、退職して「家」の中心メンバーに。名古屋を中心に活動するNPO法人「日中国際親善協会」の立ち上げにも携わった。

 

人民中国インターネット版 2011年8月

 

 

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