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遼・金王朝 千年の時をこえて 第22回

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

今、甦る金の皇帝陵

北京房山区にある、九龍山の麓に広がる荒涼たる谷間には、不気味な静けさが漂っている。それは無人の谷である。奇しくも龍門口と呼ばれる村が谷へと続く狭い入口となっており、そこに一軒の家がある。そこを過ぎれば、その先は60平方キロにも及ぶ死者の都である。金王朝の皇帝と皇族達の17の陵が、山から突き出た九つの尾根の間に位置している。しかし、10年程前までは、この地域は果樹園とトウモロコシ畑が広がっており、墓守り達が幾世代にもわたって、この陵墓の谷を見守って来たのだ。

 第四代皇帝海陵王(完顔亮)が、燕京を金王朝の中都と定めた時、遷都に反対する者たちは、その理由として先祖の墓所を離れるべきではないと主張したこともあり、女真王族の陵を新首都の近辺に造営することを命じた。

 こうして、1155年、海陵王は金太祖(完顔阿骨打)とその息子太宗の墓、さらには女真の先祖である十人の王や一族の墓を上京(現在の黒竜江省阿城)から、この地に移し、埋葬し直したのである。ここは、風水の観点からも珍しい姿の山腹と、皇室を象徴する数とされる九つの尾根を持つ理想的地形であった。後世の明十三陵や清東陵、西陵もその風水は金陵にはるかに及ばないと言われている。また、既に遼代から、雲峰寺という名刹があり、この寺が先祖の祭礼を行う場所となった。

九龍山と雲峰の見える金陵の風景。1996年の発掘作業開始以前に撮影

 土饅頭形の金陵の一部、清時代に修復された世宗の陵と推定される

 しかしながら、皇陵は歴史の中で幾度か政争に巻き込まれることもあった。暴君として恐れられた海陵王が、1161年に暗殺されると、彼は皇帝から王へ降格されたのみならず、皇帝陵に入ることも許されず、20キロも離れた山中に埋葬されたのである。逆に海陵王によって殺された第三代皇帝煕宗は金陵に安置された。後に、蒙古族が金王朝を倒した際に、陵は暴かれ、また明代の皇帝達は、敵対していた満州族の先祖である女真金の墓を破壊し、その風水を全く変えてしまった。

 1996年のある日、私は車厰村から、曲がりくねった田舎道を歩き、石炭運搬用の線路を抜けて、ついに金陵に辿りついた。一面に草の生い茂ったところを徘徊していると、一人の村人が近づいて来て、案内に立ち、金陵にまつわる興味深い話をしてくれた。彼は明王朝が金陵を破壊した様子を面白おかしく語ってくれた。風水で大切にされる龍脈を断ち切るために関羽廟を造った話等々だ。私達は太祖陵の南の狭い坂道を登って行ったが、そこには廟の跡があり、説明によると、以前は廟の傍らに、金と戦って敗れた宋の民族英雄、岳飛を讃える石碑が建っていたそうだ。明らかに金に対する最後の一撃として、岳飛の名誉回復を図ったのであろう。この谷を守って来た村人の話では、後世、満州族が全中国を支配した後、同じ女真族系の金王朝への敬意から二つの陵を再建したが、それらさえも、ほとんど痕跡を止めないほどに、壊れてしまっていた。私が訪れた時には、この場所に金王朝に結びつくものはほとんどなく、彫刻のある大理石の破片と皇室用の黄色い屋根瓦、そして恐らく第五代皇帝世宗(1189年没)のものと思われる朽ち果てた墳墓の一部が雑草の中に散乱するのみであった。

金陵一帯を流れていた水路にかかる石橋 皇后の大理石の棺に彫られた鳳凰

 ところが、2001年初頭から金陵の大規模な発掘作業が二年間にわたって実施されたのである。私はこの事業の成果を目にする機会に恵まれたのだが、この地一帯の光景が前回の訪問時とは全く変わっており、草地の中から祭壇や宮殿の跡が姿を現していた。石造りの橋や曲がりくねった排水溝から、全体の姿が想像出来た。陵墓の中央の神道には花模様の彫刻がある石の階段があり、美しい大理石の欄干は龍と牡丹で飾られていた。加えて、金銀をちりばめた鉄剣や白地に黒で龍や鳳を描いた大罐などが出土し、金朝皇帝の文化的豊かさを示すものとなっている。

 しかし何と言っても最大の発見は初代皇帝阿骨打とその皇后の大理石の棺、そして貴妃のものとみられる二つの石棺を納めた最深部の納棺室である。皇后の棺からは、金糸冠と白玉の装飾品が数点発見された。この陵は、最高峰に続く尾根のふもとの中心に位置していることからも、諸陵の中でも最重要のものと推定される。広大な地下宮への梯子を降りながら、私は伝説の英雄、阿骨打の内面の世界へ入って行くことにいささか足のすくむ思いであった。石棺の前に立つと、一つには龍の、また他の一つには鳳凰の彫刻が施されているのが目に入った。私はあたかも、古代エジプトのピラミッドの中にいるような感じがしたものだ。

 もう一つの重要な発見は、龍を彫った王冠で飾られた巨大な石碑である。金陵の発掘に携わった考古学者の解説では、この石碑は世宗の父で、死後皇帝の称号を受けた睿宗(文武簡粛)を讃えるためのもので、その遺骨は息子の手で1162年に上京から金陵に移されたことが記されている。睿宗は遼や南宋の軍を相手に戦った、武名の誉れ高い将軍であり、阿骨打の子でもあったため、父親の傍らに埋葬された。このことも阿骨打の陵の所在を確認する一つの手掛りとなった。

睿宗を祀る石碑の王冠を飾る龍の クローズアップ

太祖陵の内部。皇帝(完顔阿骨打)と皇后そして、他の2人の石棺。2003年、発掘時に撮影

その後、驚いたのは、2006年、北京首都博物館の小さな展示室でこの阿骨打と皇后の棺に出くわしたことだった。その時、私が瞼に想い描いたのは、雄壮な山峰を背後に控えた広々とした金陵の全景であり、二つの石棺が安置されていた荘厳な地下宮であった。今、石棺は金王朝の開祖に相応しいとは言えない窮屈な空間に閉じ込められてしまっている。風水から見れば、これは究極の龍脈の断絶であろう。せめて二人の魂が、九龍山の上空を自由に悠々と飛び廻っていることを願うのみである。

 

人民中国インターネット版 2010年12月

 

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