盤龍城 長江にも伝わった黄河文明
丘桓興=文 魯忠民=写真
商(殷)代(紀元前1600~同1046年)の遺跡である盤龍城は、湖北省武漢市の北郊、黄陂の盤龍湖のほとりにある。1954年に発見されて以来、考古学者の度重なる発掘を経て、商代前期の城跡が姿を現した。39基の墓の中からは400点以上の青銅器や陶器、玉器が出土した。これらは3500年前に早くも、長江中流域にも黄河文明を特色付ける華やかな青銅文化が花開き、比較的発達した農業や手工業、商業と完備された城邑(城壁に囲まれた都市)の形態と機能があったことを示している。1988年、盤龍城は国務院(政府)によって国の重点文物保護単位に指定された。
長江流域最古の商代城跡
盤龍城は小高い山の上にある。南は長江の支流の府河に臨み、東と北は盤龍湖に囲まれているが、北西だけは陸地となっている。湖北省はもともと「千湖の省」と言われるほど省内には河川や湖沼が多く、武漢から流れて来る長江が、盤龍城のそばを通っている。
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盤龍城の城壁遺跡 |
1954年、武漢は連日、豪雨に見舞われ、府河の水位が非常に高まった。人々は付近の高台の土を掘って堤防を補強したが、そのとき、付近のものとは質と色が違う土壌を発見し、すぐに上級機関に報告した。
考古学者の藍蔚、游紹奇の両氏はこの知らせを聞くとすぐに調査にやって来て、古い城壁の一部を発見した。1970年代と80年代には、湖北省博物館と北京大学の考古学者が数回ここを発掘し、豊富な文物と資料を得た。そしてここが今から3500年前の商代前期の古城遺跡であることを証明する。
城跡は上から見ると長方形をしており、南北の長さは290メートル、東西の長さは260メートル、周囲の長さは約1100メートルとなっている。
盤龍城遺跡博物館準備処の劉森淼研究員はあぜ道を歩きながら、水辺にある樹木が生い茂った斜面を指差して「これが今日まで保存されてきた城壁です」と言った。
劉研究員によると、城壁の高さは1~3メートルで、城壁の基底の幅は21メートル、断面は台形をしている。城壁は、一層一層、平らや斜めに土を突き固める「版築」という方法で、一段一段築き上げられている。「版築」の土層の厚さは8~10センチある。
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盤龍城遺跡を取材する筆者(右端)と湖北省博物館の研究者(左端と左から3人目)、武漢市盤龍城遺跡博物館準備処の研究員(左から2人目) |
武漢市盤龍城遺跡博物館準備処 |
四面ある城壁の中央部分にはそれぞれ、城壁のない部分があり、ここが城門になっている。城壁の基底の地面は石で舗装され、門道となっている。南北の城壁の外側には、幅14メートル、深さ約4メートルの城を守る濠が掘られている。南の濠の底からは、橋脚の柱穴が発見された。これは城から出入りするための橋梁の遺構に違いない。
盤龍城遺跡の面積は1.1平方キロしかないが、古城の内外は一定の決まりがある配置になっている。すなわち城内の北東部は宮殿区であり、城外は、北が平民区、南は手工業の作業場区、東は貴族の墓地、西北部は中小の奴隷主と平民の墓地となっている。
劉研究員によると、城邑は人類文明の重要な指標の一つであり、盤龍城が長江流域の最古の商代古城遺跡であることは考古学界で公認されているという。このため武漢市政府は6平方キロの保護区を設定し、その中の4平方キロを「完全保護区」にし、村民を移転させ、保安隊をつくるなど保護に尽くしている。また武漢市は巨額の資金を集め、盤龍城遺跡博物館を建設し、さらに遺跡公園をつくろうとしている。
故宮につながる宮殿建設
盤龍城の宮殿遺跡は、当時、まずここに「版築」によって台形の基礎を築き、これを宮殿の基礎としている。これによって宮殿は崇高で尊い姿に見えるうえ、湿気や水からも守られる。その基礎の上に、北側から中軸線に沿って南に面した宮殿を三棟建設した。
1974年、著名な考古学者である兪偉超氏に率いられた北京大学考古学専攻の学生たちがここを発掘した。後に作家となった張承志氏は著作『詩的考古学』の中で、当時の発掘の情景をこう記述している。
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李家嘴1号墓出土の銅卣 | 盤龍城遺跡から出土した銅の仮面 |
「盤龍城は、私が実習に参加した中で、もっとも期間が長いものであった。あの時の発掘は、後には人々をあれほど興奮させたが、発掘しているときは、数々の疑問に満ちた発掘だった。柱の基礎が見つかったあの日は、みんなひどく興奮した。柱の基礎の配列は一直線で、2.5メートル間隔であることが分かった。その日は空がすでに暗くなったのに、同級生たちは誰も発掘現場を去ろうとはしなかった。あの興奮は、経験したことがない人には想像もできないだろう。縄を引っ張って測量し、シャベルで試掘する。2.5メートルごとに掘り進むと、ゴツンゴツンと下にある石に当たった。ゴツンゴツン、また石に当たる。きれいに表土を取り除くと、宮殿が土の中から姿を現してきた」
すでに発掘された一号宮殿の基礎の遺跡は、東西の長さ39.8メートル、南北の幅12.3メートル。木材で骨組みをした土壁で、中は四室に仕切られている。中間にある二室はやや広く、それぞれ前後に二つの門がある。両側にある二つの部屋はやや狭く、南に面して門が一つだけある。宮殿の基礎遺構の周囲は、軒を支える柱にぐるりと囲まれている。柱の直径は50センチ前後で、深さは70センチ。43ある柱の底にはみな石が置かれ、柱の基礎となっている。
こうした発掘結果を元に、古代建築学の専門家が宮殿を復元した。それは、土の階段や茅葺の屋根を持ち、周囲は回廊に囲まれた四室を持つ、「四阿重檐(重層ひさし型寄棟造り)」の高い台の上にある寝殿建築であった。
二号宮殿の遺跡は一号宮殿遺跡の南13メートルの所にある。東西の長さ27.5メートル、南北の幅10.5メートル、周囲に27の柱の穴がある。西側の台座の下には、陶器でつくられた排水施設がある。二号宮殿遺跡からはまだ仕切りの壁は見つかっていない。これは両側にドアがある大広間建築のようである。ここは貴族たちが政治を執り行った「朝殿」に違いない。
博物館に展示されている復元図から、盤龍城宮殿の基礎遺跡は河南省偃師の二里頭遺跡の宮殿基礎遺跡ときわめて似ていることがわかる。この二つの宮殿はともに「版築」した土台の基礎の上に建てられ、二つとも「前が朝殿、後ろが寝殿」となっている。
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盤龍城宮殿の復元模型 |
またともに軒を二重にしたのは、宮殿建築を高くそびえ立たせ、壮観なものに見せるとともに雨や日差しを防ぎ、通風と日照を良くするためだ。つまりこの二つの宮殿区とも、母屋、廊廡(母屋の向かい、及び両側の小さな棟)、前庭、門などの建築物で構成され、配置がしっかりしていて、主要なものと副次的なものがはっきり分けられ、規模が壮大であり、当時の建築水準の高さを示している。
二里頭遺跡は中国の最初の王朝である夏(紀元前4070~同1600年)の都城であり、今から4000年前のものとされる。当時の宮殿建築はいくらか原始的なところがあり、後にある程度発展変化したが、宮殿区の配置、宮殿の形や構造、建築手法などはその後も受け継がれていった。二里頭から盤龍城の宮殿遺跡へ、さらに明代、清代の北京の故宮に至るまで、宮殿本体の「前が朝殿、後ろが寝殿」という配置や「重層ひさし型寄棟造り」の建築手法は、延々4000年近く受け継がれてきたわけだ。