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盤龍城 長江にも伝わった黄河文明

 

「玉戈の王」と大銅鉞

考古学者たちは城外にある楼子湾、李家嘴、楊家湾、楊家嘴などの地で相次いで調査を行った。39基の墓が発掘され、そこから大量の青銅器、陶器、玉器が出土した。

人々の注目を集めた美しい青銅器は、その大部分が李家嘴の一、二、三号墓の貴族墓地から集中的に出土した。とくに二号墓は、棺と椁(棺を入れた箱)があり、椁の板は、饕餮文と雲雷文の彫刻が一面に施されている。彫刻は美しく、中国の古代木彫芸術の中できわめて優れている。

墓の中には殉葬された一匹の犬と三人の殉葬者がいた。こうした葬儀の風習は、当時の階級分化を反映している。墓の中にあった副葬品は非常に豊富で、その中には青銅の礼器23点、青銅の兵器と工具40点があった。

陶器の缸(かめ)

銅鼎。鼎本体には補修した痕跡が残っている

饕餮文で飾られた銅斝

その中の一つである青銅の鉞は、長さ41センチ、刃の幅26センチで、これまでに発見された青銅の鉞の中で最大のものである。鉞は古代には、首をはねる長い柄のついた兵器や刑具として使われ、貴族の身分や地位、権力の象徴であった。ここから大銅鉞が出土したことは、墓主が生前、軍権を握っていた盤龍城の最高統治者であったことを示している。

湖北省博物館の常務副館長の万全文氏は、青銅器と楚(長江中流域)の文化の研究者である。彼は盤龍城遺跡から400点以上の青銅器が出土したことを大変誇りに思っている。「ここからは、長江中流域でもっとも古い青銅器群が出土したのです」と彼は述べた。

そして万氏は、博物館が所蔵している「宝物」を誇らしげに紹介してくれた。その一つは青銅の簋(飯を盛った祭器)で、商代でもっとも古い。もう一つは青銅の卣(酒を入れた祭器)で、これも商代でもっとも古い。さらに、古代の祭祀の際に、祈祷師が被った仮面は、鬼神との交流に使われた。ここにある青銅の馬の顔飾りは初めて発見されたものである。

盤龍城から出土した青銅器は、鼎や簋などの礼器から爵(三本足の酒器)や斝(三本足と取っ手のある円形の口をした酒器)などの酒器まで、その形や文様の装飾も、製作技術も、河南省の偃師商城や鄭州商城の遺跡から出土したものときわめて似ている。このことから、中原の青銅器文化が長江中流域に伝わり、大きな影響を与えたことが分かる。

さらに注目すべきは、李家嘴三号墓から大きな玉の戈が出土したことである。それは長さ94センチ、幅11センチで、これまで出土した商代の玉戈のうち最大のものである。「玉戈の王」と呼ばれるこの玉戈は、湖北省博物館に収蔵されている。

銅資源を支配した軍事拠点

盤龍城と河南省の鄭州商城はともに商代前期の遺跡で、おおよその年代は紀元前15世紀ごろである。面白いことに、この二つの遺跡と各種の文化の遺物は、似通ったところが多い。

例えば、城跡や宮殿の建築の面では、城跡は上から見るとともに長方形をしており、方角は北から東へ20度ほど傾いている。城壁は一段ごとに「版築」で造られ、城の内側にも「護城坡」と呼ばれる斜面が残っている。

宮殿区はいずれも城内の北東部に設けられ、平民区、手工業の作業場区はいずれも城外に分布している。宮殿区は、「版築」で築かれた台座の基礎、中軸線に沿った宮殿建築の配置、「前が朝殿、後ろが寝殿」という宮殿の異なる機能、母屋、廊廡、前庭、門などによる宮殿区の構成、軒を二重にして屋根をつくる建築技術などが共通している。

墓の形や構造、習俗の面では、二つの遺跡とも墓は竪穴式の土坑墓である。貴族墓には棺や椁があり、墓の底には殉葬の人と犬がいる。これらはみな商代の貴族の埋葬風習である。

湖北省博物館常務副館長の万全文氏 湖北省博物館

青銅器、陶器、玉器の面では、盤龍城から出土した鼎、爵、簋などの青銅器と玉器、一部の陶器は、その形や文様、製作技術がみな鄭州商城で発掘されたものと完全に一致している。

こうしたことは、3500年前の商代前期に、黄河流域の商の文化がすでに長江流域に伝わったことを示している。各地で行われた考古学発掘の結果、商王朝が鄭州商城を建て都とした時期に、商の文化は大規模に拡散、伝播し、山東省から陝西省まで、河北省から長江沿岸まで、さらに遠くは遼寧省や内蒙古自治区、広西チワン族自治区にも広範に商代早期の青銅文化が出現している。

しかし、盤龍城と中原の商王朝との関係はいったいどのようなものだったのか。これについては研究者たちの間で見解が一致していない。ある研究者は、盤龍城は商王朝が長江のほとりに建てた重要な国であると考えている。しかし、さらに多くの研究者は、盤龍城は、「雀」という名の商王朝の一貴族が設立した軍事拠点に過ぎないと考えている。このほか、盤龍城はこの地の土着の荊楚人が建てた国の都邑(みやこ)であると考えている人もいる。

3500年前に、黄河流域から武装した部族がやって来て、故郷を離れ、長江のほとりに城を建て駐兵したのは何のためだったのだろう。

これについて盤龍城の発見者である藍蔚氏はこう考えている。

「3500年前には、中国社会はすでに青銅器時代に入り、生産や生活、軍事の領域で青銅器の製造はきわめて重要な地位を占め、銅はもっとも重要な戦略物資になっていた。しかし中原は銅資源が乏しかった。だが盤龍城付近にある大冶銅緑山は、商代においては有名な銅の産地であり、そのうえ、河川や湖沼が多く、輸送に便利であった。そこで商王朝はここに軍事拠点をつくり、銅鉱山の開発と冶金精錬、輸送を保障し、さらに一歩、長江流域に対する支配を強めた。そして盤龍城はたちまち江漢地区の商代文明の中心となったのである」

盤龍城は、3、400年続いた後、急激に衰退した。盤龍城は国と国との銅資源争奪の戦争によって破壊されたと考える人もいる。最後は、南方に孤立し、勢力が弱くなった盤龍城の軍事指導者が戦いに敗れ、盤龍城は歴史の闇の中に消えていった。

 

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