熱烈なファンに支えられロック歌手
王焱=文・写真
中国大陸部のロック・ミュージックは1980年代に黎明期を迎えた。まず欧米のロックが伝わって、当時の若者文化に大きな影響を与え、90年代初頭には雨後の筍のように多数のバンドが登場した。
バンドに魅了され
雷剛さんは、中国ロック界の大御所「天堂楽隊」のメンバーで、20年来作曲やボーカルで活躍してきた。1990年、歌が大好きな彼はカラオケ店の歌手となった。「ひと晩に5元しか稼げませんでしたが、その頃の私は歌えるだけで幸せだったのです」と雷さんは述懐する。
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ステージに先立って、専門のスタジオを借りて練習する。メイン・ボーカルの雷剛さん(左から2人目)だけが楽器を持たないが、彼こそがバンドの中心人物だ |
92年、誘われて「粉霧」というバンドのメイン・ボーカルとなった。「ロック・バンドではメンバー同士、思う存分に刺激し合うことができます。いったんバンドが好きになると、ソロで歌うのは以前ほど楽しくなくなりました」
雷さんは作詞・作曲も担当しているが、正式な音楽教育を受けたことはない。「メロディーが浮かんだらハミングしてみます。以前、その場で録音できるケータイがなかった時代は、ハミングしてみたメロディーを頭に記憶しておき、採譜できる人のところに行ってその場で口ずさんで譜面にしてもらったものです」
93年、「粉霧」は自主コンサートを開き成功。これを機にバンドは頭角を現し、各大学で次々と演奏を行った。
「中国のロックは、外国のロックの自由と解放を求める精神を継承し、さらに社会や生き方に対するメッセージを加えています」と雷さんは話す。「ロックが好きな人は、音楽を通じて生き方に対する思いを吐露したい気持ちが強く、大学生には特に人気があるのです」
マーケットの盛衰
その頃、中国のロックは輝かしい隆盛期にあった。雷さんは今も当時の情景を記憶している。「一度、観客が興奮し、私の手を強く握り引っ張るので、ステージから落ちてしまいました。しかし、多くの人の手が浪のように私を支え、私の体は聴衆の上を行きつ戻りつしたのです」 95年、香港のレコード会社が大陸部に進出し、「粉霧」は「天堂」と改名して契約した。「当時はレコード会社と契約してこそ、撮影、録音してもらえたのです。また、アドバンスの印税が支給されて生活費で悩む必要がなくなり、安心して創作に打ち込めるようになりました」。こうして96年、「天堂楽隊」はデビュー・アルバムをリリース、初回プレスの8万枚は一週間で完売した。 この時、ロックのマーケットは空前の活況を呈していた。新譜が発売されると、ファンは必ず買い求めた。ビジネスチャンスは多くの企業を引き寄せたが、一部の業者は音楽の完成度を考慮せず、アルバムを乱発した。雷さんは沈痛な表情でこう話す。「一部のバンドも目の前の功利を求め、以前のようにじっくり作品を作ることをしなくなりました。やがて何度かだまされたファンが離れ、マーケット全体が縮小し始めたのです」
そうした中、2000年に彼らと契約していた会社が倒産、「天堂楽隊」はまたステージ活動に生計を頼る生活に戻っていった。
ファンの愛があれば
21世紀に入ると、中国のロックは次第に復活してきた。この数年来、各種ステージで多くの新世代ロックバンドの姿を見かけるようになった。一部のバンドは米国や日本のステージも踏んでいる。ところで、多くのロックバンドは見た目が粗野で冷たい印象だが、内心はみな熱く、善良だ。2008年には、「天堂楽隊」など多数のロックバンドが四川大地震被災者のためのチャリティー・コンサートを行い、5時間のステージで6万元の義援金を集めた。
11年、「天堂楽隊」は6枚目のアルバム『愛在揺滾的歳月』をリリースした。現在の収入について、雷さんは率直にこう話している。「普通のサラリーマンより少しいい程度でしょう。でも、私たちにとって本当に必要なのは熱気あふれるライブとファンの愛です。私たちのバンドは長く続けて来られましたし、ずっと愛し続けてくれるファンが数多くいます。それで十分です」
人民中国インターネット版 2012年5月