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小さな扇面の雅びな世界 「王星記」の扇子

 

高原=文 馮進=写真

古代中国では、扇は「揺風」「涼友」と呼ばれ、禹・舜の時代にすでに存在していたといわれる。隋代以前は、絹や鳥の羽などで作られていたが、唐代以降、象牙やビャクダンなどを用いた扇子が相次いで現れた。明・清代になると、蘇州、杭州一帯における扇子の製造技術がピークに達した。なかでも、蘇州で作られたものは「香扇」、杭州のものは「雅扇」と呼ばれた。

王星記の扇子は「雅扇」の代表で、「中華老字号(中国の老舗)」において唯一の扇子ブランドでもある。

国中に名を轟かせる黒紙扇子

黒紙扇子に絵付けする
王星記の扇子には、黒紙扇子、ビャクダン扇子、宮団扇、女絹扇子などいろいろな種類があり、いずれも王星記の職人の優れた技術と豊富な想像力が凝縮されており、すべて逸品だといえるが、最も代表的なのはやはり黒紙扇子である。

1875年(清の光緒元年)、有名な扇子職人であった王星斎は杭州の扇子工房が集中する地区「扇子巷」で、家族経営の工房「王星斎扇荘」を始めた。これが王星記扇子の前身である。王星斎と妻の陳英はともに杭州で名を知られた黒紙扇子の職人で、二人が作った黒紙扇子は貢ぎ物として皇室に献上され、「貢扇」と讃えられた。そのときから、黒紙扇子は王星記の輝かしい看板商品となったのである。

王星記の黒紙扇子の製造技術は非常に繁雑で、計86の工程があり、古来より材料にこだわり、仕上げは丁寧で、美しいと同時に長持ちすることで広くその名を知られている。色は真っ黒でつやがあり、雨に打たれても濡れず、日に晒されても変形しないという特徴を持つ。実験によると、黒紙扇子を太陽のもとに数日間晒しっぱなしにしても、また、沸騰したお湯に入れ50時間以上加熱しても、完全な状態を保っているという。生まれてこのかた、中国の人々に親しまれてきたのもこれで納得できるだろう。

この扇子の骨には、広西、江西で採れる湘妃竹が使われる。この竹は非常に柔らかく弾力性に富み、表面にきれいなまだら模様がある。このまだら模様はもともとあるものではなく、鳥の糞が竹の表面につき、それが数年かけて風化し、自然に中まで染み通ってできたものである。このために、湘妃竹の模様は一つとして同じものがない。困ったことに、まだら模様のある湘妃竹を探すことだけでも十分難しいうえに、竹そのものが非常に成長の遅い植物で、材料として使えるようになるまで少なくとも10年以上かかる。そのため、竹の仕入れにやって来た人は江西などで利用できる竹を見つけると、珍しい宝物を手に入れたかのように大切に杭州に持って帰る。しかし、手ぶらで帰ることも少なくない。そこからも黒紙扇子の貴重さとこだわりが伺えるだろう。

扇子の優雅な趣き

中国人にとって、扇子はただの涼をとる道具ではない。実用性のうえに、豊富な文化と芸術的な味わいが含まれているものである。

歴史上、杭州はずっと文化人が集まるところだった。王星記の最初の工房は美しい西湖のほとりにあり、雷峰夕照(雷峰塔の夕焼け、西湖十景のひとつ)の絶景を眺めながら、柳浪聞鶯(柳の枝が揺れ、鶯が鳴く光景。西湖十景のひとつ)を身近に楽しむことができた。山紫水明の景色が文化人の文学作品とともに王星記の扇子に溶け込み、大自然の霊気あふれる洒脱で独特なスタイルを確立した。黒紙扇子は重厚で、ビャクダン扇子は芳醇な香りを漂わせ、深い味わいがある。また、美しい宮女が描かれた宮団扇といえば、「軽羅の小扇流蛍を撲つ(晩唐の詩人杜牧の『秋夕』の一節で、退屈した宮女が一人で蛍を叩いて遊んでいる光景を秋の寂しい風景と重ねて詠んだ詩)」という詩句をほうふつとさせる。人によってそれぞれ違う扇子を選ぶことから、扇子は個性と品位の象徴となった。

このあたりで、王星記の扇子の絵付けについて紹介しておこう。「絵付け」という言葉は実は正確ではない。その中には、絵のほかに、書道、てん刻、透かし彫りなど数多くのスタイルが含まれるからだ。

王星記扇子の絵付けは、濃厚な江南地方の特色を持つ。例えば、西湖や銭塘江の美景を描いたものや、『西廂記』『紅楼夢』などの古典文学作品から取材したもの、小さな文字で『般若心経』『金剛経』を記したものなどがある。そのほか、現代の有名文化人も王星記の扇子に自らの力作を残した。例えば、書画の大家の呉昌碩氏、潘天寿氏、斉白石氏、張大千氏、そして京劇俳優の梅蘭芳氏などで、彼らの作品は今ではみな王星記扇芸博物館に収蔵されている。

書画の大家張大千の手による紙扇子

西湖全景が描かれたビャクダンの扇子

絹に細密画の手法で描かれた「仕女」団扇

「中華の春」と題される非常に精巧な細工が施された扇子

山あり谷ありの歴史

150年もの間、王星記はいわゆる「山あり谷あり」の歴史を歩んできた。輝かしい時期もあったが、何度もどん底を味わった。20世紀初頭、王星記は上海、北京、天津、瀋陽などの都市に支店を設けた。その影響は全国的に広まって、張子元、舒蓮記と並ぶ杭州扇子業界の3大名店と称された。現在では、他の2店はすでに市場から姿を消したが、王星記だけはしっかり生き残った。

文化大革命期間中、王星記の扇子に描かれた古代宮女、古典的ラブストーリーの図柄が批判を受け、生産が一時停滞した。そこで、職人の一部は白黒テレビの生産に転じ、中国で有名な東風テレビがこの時誕生した。

1973年以後、王星記は国家の援助を受けて、扇子の生産を再開した。そして80年代に第2のピークを迎え、その製品は国外にも販売され、国内外の工芸美術コンクールで何度も優勝した。

しかし、90年代以後、扇風機とクーラーの普及に伴い、扇子は人々の日常生活における実用価値を失った。王星記もその他の扇子の製造会社と同じように、再び苦境に陥った。その上、1994年に王星記の工場に火災が起こり、きわめて大きな損失をこうむり、多くの貴重な扇子のコレクションがほとんどすべて焼けてしまった。

それにもかかわらず、王星記は扇子の生産を放棄しなかった。ここ数年、同社は生産の重点を実用性の高い扇子からコレクション用の扇子に転じ、これによって、新たに態勢を立て直そうとしている。王星記は従来の凝った材料を選び続け、全部手作りで、また工芸美術界の大物にデザインや絵付けを頼んでいる。こうした扇子一本の価格は数百元から1万元以上までまちまちである。これらの製品は社会に認められるのだろうか?現在、王星記は赤字を解消し、黒字に転じているという事実が、おそらく最も説得力がある答えだろう。

王星記扇芸博物館で、民間から収集された各種の扇子を見せてもらった。絹のものも、紙のものも、精美な模様が刺繍されているものもあるし、有名な書道家が揮毫したものもある。これらはすべて王星記が1930~40年代に販売した古いものだ。高価でない扇子の飾り物なのに、しおりとして使ったり、箱の底にしまいこまれていたりして、7、80年もの間、保存されてきたものもある。こうしたものを見ると、人々の王星記の扇子に対する愛着を知ることができ、人々にとって、扇子は涼むためのただの道具ではなく、昔の思い出や中国伝統文化に対する追憶が込められたものであることが分かる。したがって、これらの精巧な扇子は、必ずクーラーや扇風機の時代でも、生き続けるに違いない。

絵付け職人が扇面の上に小さな文字で『般若心経』や『金剛経』などを書き込んでいる

 

人民中国インターネット版 2012年11月19日

 

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