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中華帽子から始まった4歳児の夢

 

山本 綾子

4歳の頃、父から中華帽子をもらったことが、私と中国との出会いでした。中国へ行った父がお土産として買ってきてくれた帽子でした。これは、私にとって中国のみならず海外を初めて知った瞬間でした。その帽子の丸い形、デザイン、生地が珍しく、毎日喜んでかぶって遊んでいました。幼少の子どもながら、中国の文化にとても魅了されました。その後も、中国の女の子が中国の人形をもっているアニメをテレビで見て、「いつかあの人形をもっているような中国人の女の子に会ってみたいな。一緒に遊んでみたいな」と思っていたことを印象深く覚えています。 

中国に興味をもち始めた私のために、両親は私が高校生になるまで中国の芸術団の日本公演に頻繁に連れて行ってくれました。私が住んでいた石川県は、日常的に海外の人を見たり、海外の人と接することがとても稀な地域であったため、私にとって中国の芸術団の公演を見ることは、中国に限らず海外の人と触れ合い、他国の人を理解する貴重な機会でした。中でも、最も思い出深い演目があります。中国の雑技団の公演で、男の子が棒から棒へ空中で移動する演技があり、移動する瞬間「ハッ」という呼吸が聞こえました。その瞬間、同世代の男の子が日本と中国の交流のために日本へ来ていること、棒から落ちたら大怪我をするかもしれないのに命掛けで頑張っている姿に言葉では表せないほど感動をしました。それとともに、将来、私も両国の関係づくりに携わりたいと思い始めるようになりました。 

もう一つ、私が両国の関係づくりに貢献したいと思うようになった出来事があります。それは、祖父です。祖父は時々戦争の話をしてくれました。口数の少ない性格であった祖父は、一言二言絞り出すように「戦争で中国へ行った」と話しをしてくれました。歳をとって痴呆が進んだ祖父は、ある日テレビに映る船を見て、悲しそうに「あの船に乗った」と一言だけ一粒だけ涙を流して呟きました。それは、当時日本兵が中国へ行く際に乗っていた船のようでした。私は、この時、戦争の恐ろしさを感じました。家族のことも認識できないほど痴呆が進んでいても、戦争の記憶は決して消えない程悲しく、辛いことなのだと知りました。思えば、祖父はずっと中国の人のことを気にかける人生だったと思います。終戦後も祖父の心では戦争が続いており、亡くなった時の心からの穏やかな表情を見て、祖父にとっての戦争がやっと終わったのだと感じました。祖父は終戦と同じような暑い日にたくさんのひまわりに囲まれて生涯を終えました。あのときテレビで見た船が、互いに戦うためではなく、友誼を交わすための船であったら、祖父はどれだけ希望に満ち溢れて中国へ行くことができたか、帰ってくることができたか、その後の人生を過ごすことができたかと思うと、深く考えさせられます。両国の青年が友誼のために往来する夢を祖父に託されたのだと思っています。 

青年交流を始めとする交流事業は、国交正常化後多く実施されています。両国の間には未だ課題はあると思いますが、長い歴史と未来を俯瞰することで関係づくりの途中段階であるという認識をもつことができ、着実に少しずつ友誼の道が拓かれていることに気付けると思います。私は、両国は兄弟だと思っています。兄弟は喧嘩をすることもありますが、必ず仲直りすることができます。兄弟は喧嘩をしても、心の底では互いを思い合っています。その心が日本と中国にはあると思っています。私は、将来、両国を始めとし各国が継続的で安定した国家間関係を構築できるよう貢献したいと思っています。夢は、いつか、昔見た雑技団の男の子にもう一度会い、両国の友誼に励むことを互いに誓い称え合うことです。

 

人民中国インターネット版2016年9月

 

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