People's China
現在位置: コラム対訳コーナー

那时候的生活,是细嚼慢咽

あの頃の生活は、じっくり味わうものだった

 

那时候,生活其实是相当细致的,什么都是从长计议。在夏末秋初,豇豆老了,即将落市,价格也跟着下来了。于是,勤劳的主妇便购来一篮篮的豇豆,捡好,洗净。然后,用针穿一条长线,将豇豆一条一条穿起来,晾起来,晒干。冬天就好烧肉吃了。用过的线呢,清水里淘一淘,理顺,收好,来年晒豇豆时好再用。缝被子的线,也是横的竖的量准再剪断,缝到头正好。拆洗被子时,一针一针抽出来,理顺,洗净,晒干,再缝上。电影院大多没有空调,可是供有纸扇,放在检票口的木箱里。进去时,拾一把,出来时,再扔回去,下一场的人好再用。

あの頃、生活はその実、相当に細やかなものであり、何をするにも長い目で見て考えるものだった。夏の終わりから秋の始めにかけて、ササゲが大きくなりすぎ、市場に出るのももうお終いという頃になると、価格もそれにつれて下がっていった。すると、働き者の主婦はササゲをカゴで幾つも買ってきて、一本一本丁寧に選び取って、きれいに洗った。そして、針に長い糸を通して、豆を一本一本つなげ、干して、乾燥させた。あとは、冬に肉と一緒に煮込んで食べればよい。使い終えた糸は、きれいな水の中ですすいで、きちんと整えてからしまい、来年ササゲを干すときにまた使う。布団を縫う時の糸も、横と縦の長さを正確に測ったうえで切り、縫い終わりがちょうど良い長さになるようにする。布団を崩して洗う時には、一針一針抜き取って、整えて、洗って、干して、また縫い合わせる。ほとんどの映画館にはエアコンがなかったが、紙のうちわが提供され、検札口にある木箱に入れてあった。入る時に1つ抜き取り、出て来る時にまた戻しておくと、次の回の人も使うことができる。

 

这种生活养育着人生的希望,今年过了有明年,明年过了还有后年,一点不是得过且过。不像今天,四处是一次性的用具,用过了事,今天过了,明天就不过了。这样的短期行为,挥霍资源不说,还挥霍生活的兴致,多少带着些“混”。

こうした生活は人生の希望を育む。今年が過ぎれば来年があり、来年が過ぎればまたさ来年があって、決してその日暮らしではなかった。今日のように使い捨ての物だらけで、使い終えてしまえば、明日のことまで考えなくてもよい生活ではない。このような短期的行為は、資源を無駄に使うのは言わずもがな、生活の楽しさまでも無駄遣いするもので、多少なりともいい加減さを帯びている。

 

那时候,吃是有限制的。家境好的人家,大排骨也是每顿一人一块。一条鱼,要吃一家子。那时,吃一只鸡是大事情,简直带有隆重的气氛。现在鸡是多了,从传送带上啄食人工饲料,没练过腿脚,肉是松散的,味同嚼蜡。现在的东西多是多了,好像都会繁殖,东西生东西,无限地多下去。可是,其实,好东西还是那么些,要想多,只能稀释了。

あの時、食べ物には限りがあった。家庭状況が良い人でも、骨付き肉は毎食1人1個だった。魚1尾は家族全員で食べるものだった。あの時、鳥をまるごと1羽食べるのは大事で、厳粛な雰囲気すら帯びるほどだった。今では鳥はありふれていて、ベルトコンベアで運ばれる人工飼料をつつき、足を鍛えたこともなく、肉には締まりがなく、ロウソクを咬むような味がする。現在、物は多いには多いが、すべてが繁殖しているかのようで、物が物を生み出し、無限に増えていっている。しかし、その実、良いものはほんのわずかで、たくさん手に入れようとすれば、薄めるしかないのである。

 

节选自王安忆散文《过去的生活》

(王安憶のエッセイ「かつての生活」より一部抜粋)

 

 

 

◆翻訳にあたって◆

 

王安憶は1954年南京生まれの女性作家で復旦大学教授。代表作に小説『長恨歌』などがある。ササゲは日本ではあまり見かけないが、長いインゲンのような形状の野菜。干して保存食とされ、野菜のない冬に、ササゲの乾燥させたものを一晩水に戻してから、骨付き肉といっしょに煮込む家庭料理がよくつくられる。

福井ゆり子

  

 

人民中国インターネット版  2016年12月

 

同コラムの最新記事
算我农民
送行
读人
租来的人生
虾趣