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租来的人生

借り物の人生

 

  想想我们的人生,都是租来的,没有一种东西真正属于我们。

われわれの人生について考えてみると、全てが借り物であり、本当にわれわれに属するものは無いように思う。

 

 一位癌症患者曾说:“活了这么几十年,这一刻忽然有一种感觉,好像我努力得来的一切,不过是一纸租赁契约,一切都是租来的。到了某个年限,就要缴清借款,还回去。”

あるがん患者がこのように言ったことがある。「こうやって数十年生きてきて、この時になって突然、私たちが努力して得てきたもの全ては、一枚の賃貸契約の紙に過ぎず、全てが借り物ではないかという感覚に襲われた。ある時期が来れば、全て清算し、返済しなければならないんだ」

 

 在很多人看来,我的另一个朋友到目前为止,人生似乎十全十美,什么都有。我们曾开他玩笑,说他什么也不多,就是钱多。然而,他却说,他多半时间都活在有成就感却不快乐的状况中,工作上一直在应付各种挑战和危机,心灵上一直漂泊无依。

多くの人の目には、私のまた別の友人は、現在までのところ完璧と思われる人生を送っており、何もかも手に入れているように見えた。私たちはよく、「彼は何もないけど、お金だけは多いね」とからかったものだ。しかし彼は、ほとんどの時を充実感だけあって楽しさはない状況の中で過ごしており、仕事の上で常に各種の問題や危機に対応しなくてはならず、精神的には何も頼るものが無いような気がすると言っていた。

 

 我们努力地读书工作,买房子让自己安定,买车以求舒适。有了伴侣,有了孩子、有了公司……每一样,我们都以为是自己的资产,看着这些,我们才感到安慰。但伴侣、孩子,都不认为他们的所有权属于你。正如我们并不认为自己是父母资产的一部分,自小就嚷着要独立一样。把活人视为资产,是一厢情愿。

われわれは努力して勉強し、仕事をして、家を買って自分の安定を求め、車を買って快適さを求める。伴侶があり、子どもがあり、会社がある……。どれもこれも、われわれは自分の資産であると考えており、これらを見て、ようやく慰めを感じる。しかし、伴侶も、子どもも、皆彼らの所有権があなたにあるとは思っていない。あなたが自分のことを父母の資産の一部だとは考えず、小さな頃から独立するんだと騒ぎ立てていたのと同じである。生きている人間を資産と考えるのは、独りよがりの考えなのだ。

 

 这个世界或许只是一个很大的租车公司。被命运善待的人,不过是向一个服务好的租车公司租到了一部好车,这或许也只是完美人生的缩影。旅程尽头有些不舍,却还是往前行。再美妙的陪伴都带不走,越顺的人生,时光流逝得越惊心。

この世界はもしかしたらとても大きなレンタカー会社に過ぎないのかもしれない。運命に恵まれた人も、サービスのよいレンタカー会社からいい車を借りているに過ぎず、これはひょっとしたら完全な人生の縮図に過ぎないのかもしれない。旅の終わりには心残りはあっても、前に進まねばならない。どんなに素晴らしい伴侶でも持ってゆくことはできず、順調な人生であればあるほど、時の流れに怯える。

 

 与租来的东西不同,过程、情感与记忆,都是属于自己的独特经历。许多人对租来的东西十分精心,对不是租来的东西十分粗心。租来的人生,值得斤斤计较或细细呵护的,唯有时间、唯有情。

借り物とは違うのは、その過程や感情そして記憶は、全て自分だけの経験となることである。多くの人は借り物に対しては十分な気配りをするし、借り物でないものには、粗雑な扱いをするものだ。借り物の人生だからこそ、細かな気配りをし、あるいは注意深く守る価値があるのは、ただ時間だけ、ただ情だけなのである。

 

节选自吴淡如著书《租来的人生》

呉淡如『借り物の人生』より一部抜粋

 

 

◆翻訳にあたって◆

 

呉淡如(1964~)は台湾の女性テレビキャスターとして活躍する傍ら、執筆活動も行い、台湾指折りのベストセラー作家でもある。最終段落の“斤斤计较”は「細かなことにこだわる」や「小さなことをあげつらう」などマイナスの意味に使われることも多いが、ここではマイナスの意味合いはないため、「細かな気配りをする」と訳した。

福井ゆり子

  

 

 

人民中国インターネット版  2016年7月

 

 

 

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