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祖母的葵花

祖母のヒマワリ

 

  葵花挺立着,情绪饱满,斗志昂扬,迎着太阳的方向,把头颅昂起,再昂起。小时我曾奇怪于它怎么总迎着太阳转呢,伸了小手,拼命拉扯那大盘的花,不让它看太阳。但我手一松,它弹跳一下,头颅又昂上去,永不可折弯的样子。

ヒマワリは直立して、意欲満々、意気軒昂と太陽の方を向き、頭を高く、より高く、もたげている。幼い頃、私はそれがいつも太陽に顔を向けていることを不思議に思い、小さな手を伸ばして懸命にその大きな皿のような花を引っ張り、太陽から背けようとした。しかし、ちょっと手を緩めると跳ね戻り、また頭を高くもたげ、永遠に折れ曲がることはないように見えた。

 

 凡·高在1888年的《向日葵》里,用大把金黄,来渲染葵花。画中,一朵一朵葵花,在阳光下怒放。仿佛是“背景上迸发出的燃烧的火焰”,凡·高说,那是爱的最强光。在颇多失意,颇多徬徨的日子里,那大朵的葵花,给他幽暗沉郁的心,注入最后的温暖。

ゴッホが1888年に描いた『ひまわり』では、輝くような黄色でヒマワリが塗られている。絵の中では1本1本のヒマワリが、太陽の下で咲き誇っている。まるで、後ろにめらめらと炎があがっているようである。ゴッホは、それは愛という最も強い光だと言った。失意や迷いだらけの日々、その大きなヒマワリの花は、暗く沈んだ彼の心に最後の温かみを注いでくれたのだ。

 

 我的祖母不知道凡·高,不懂得爱的最强光。但她喜欢种葵花。在那些缺衣少吃的岁月里,院门前那一排排葵花,在我们心头,投下最明艳的色彩。葵花开了,就快有香香的瓜子嗑了。这是一种很香的等待,这样的等待很幸福。

私の祖母はゴッホを知らず、何が愛という最も強い光であるかも分かりはしなかった。しかし彼女は、ヒマワリを植えるのを好んだ。衣食に不自由していたあの頃、玄関の前にずらりと並んだヒマワリは、私の心に最も鮮やかな色彩を投げかけてくれた。ヒマワリが咲けば、すぐにおいしいヒマワリの種を食べることができる。これはとてもうっとりする待ち時間で、このように待つことはとても幸せであった。

 

 葵花结籽,亦有另一种风韵。这个时候,它的头颅开始低垂,有些含羞,有些深沉。但腰杆仍是挺直的。一颗一颗的瓜子,一日一日成形,饱满,吸足阳光和花香。葵花成熟起来,蜂窝一般的。祖母摘下它们,轻轻敲,一颗一颗的瓜子,就落到祖母预先放好的匾子里。放在阳光下晒,会闻见花朵的香气。一颗瓜子,原是一朵花的魂啊。

ヒマワリの実が熟すと、また別の趣があった。この時には頭を垂らし始め、ちょっと恥らうような、ちょっと憂いを帯びたような姿となった。しかしそれでも腰はしゃきっとしている。1粒1粒のヒマワリの種が日に日に形をなし、膨れて来て、たっぷりと日の光と花の香りを吸い込む。ヒマワリが実ると、まるで蜂の巣のようになる。祖母はそれを摘み取り、軽く叩いて1粒そして1粒と、置いておいたザルの中にヒマワリの種を落とした。太陽の光の下で干していると、花の香りをかぐことができた。1粒の種は、かつてはひとひらの花の魂だったのだ。

 

 瓜子晒干,祖母会用文火炒熟,这个孩子口袋里装一把,那个孩子口袋里装一把。我们的童年就这样香香地过来了。

種を天日干しした後、祖母は弱火で炒って、この子のポケットにも、あの子のポケットにも、たっぷりと詰め込んだ。われわれの子ども時代はこのように香りに包まれて過ぎていった。

 

  节选自丁立梅《祖母的葵花》

丁立梅『祖母のヒマワリ』より一部抜粋

 

 

◆翻訳にあたって◆

ひまわりはもともと西洋絵画において神への愛や信仰心、そして太陽を象徴するものであった。訳文2段落目中ほどの「愛という最も強い光」は、キリスト教における神のことを指していると考えられる。ヒマワリの種は今でもポピュラーなおやつとして全国で食べられており、カボチャの種、スイカの種なども同様に売られている。片手で炒ったヒマワリの種を1粒ずつつまみ、歯で種を割って中身だけ器用に取り出して食べ、あっという間に殻の山ができるという光景もよく見かける。種を割り続けたことで前歯がすり減って、くぼみができてしまっている人もいるほどだ。(福井ゆり子)

 

 

 

 

人民中国インターネット版  2016年3月

 

 

 

 

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