People's China
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秋声一片

秋を告げる音

 

 生活在都市的人,愈来愈不了解季节了。

都市に生活する人は、どんどん季節にうとくなってゆく。

 

 我们不能像在儿时的乡下,看到满地野花怒放,而嗅到春风的讯息;也不能在夜里的庭院,看挥扇乘凉的老人,感受到夏夜的乐趣;更不能在东北季风来临前,做最后一次出海的航行捕鱼,而知道秋季将尽。

われわれの子ども時代の田舎のように、野原一面に花が咲くのを見て、春風のたよりを嗅ぎ取ることはできず、庭に出てうちわで涼をとる老人に、夏の夜の趣を感じることもできない。さらには東北の季節風が吹く前に最後に漁に出る漁船で秋の終わりを知ることは、まったく不可能だ。

 

 都市就是这样的,夏夜里我们坐在冷气房子里,远望落地窗外的明星,几疑是秋天;冬寒的时候,我们走过聚集的花市,还以为春天正盛。然后我们慢慢迷惑了、迷失了,季节对我们已失去了意义,因为在都市里的工作是没有季节的。 

都会とはまさにこういったところで、夏の夜に冷房の効いた部屋の中に座って、フランス窓の外で輝く星を遠目に見て、秋であるかのように思う。冬の寒いときに、花がひしめく市場を通りかかって、春の盛りであるかのように錯覚する。そしてわれわれは次第に惑い、見失うのだ。季節がわれわれにとって意味を失ったのは、都市の中の仕事には季節がないからである。 

 

 前几天,一位朋友来访,兴冲冲地告诉我:“秋天到了,你知不知道?”他突来的问话使我大吃一惊,后来打听清楚,才知道他秋天的讯息来自市场,他到市场去买菜,看到市场里的蟹儿全黄了,才惊觉到秋天已至,不禁令我哑然失笑;对“春江水暖鸭先知”的鸭子来说,要是知道人是从市场知道秋天,恐怕也要笑吧。

数日前、ある友人が訪ねて来て、興奮した様子で私に言った。「秋が来たのを知っているかい?」彼の突然のこの問い掛けは私を大いに驚かした。後でよく聞いてみると、彼は秋が来たのを市場で知ったのだという。市場に買い物に行って、市場にあるカニが卵を持っているのを見て、秋がもう来ていることに驚いたと言うので、私は思わず失笑してしまった。「春に川の水がぬるむのを鴨は先に知る」の鴨からすれば、人が市場で秋を知るとしたら、おかしくて仕方ないだろう。

 

 到如今,我们对大自然的感应甚至不如一棵树。一棵树知道什么时候抽芽、开花、结实、落叶等等,并且把它的生命经验记录在一圈圈或松或紧的年轮,而我们呢?有许多年轻的孩子甚至不知道玫瑰、杜鹃什么时候开花。更不要说从声音里体会秋天的来临了。

今の時代、われわれの大自然に対する感応力は、1本の樹木にも及ばない。木はいつ芽吹き、花を咲かせ、実をならせ、葉を落とせばよいかなどを知っている。かつ、その生命の経験は一つ一つの緩やかな、あるいは締まった年輪によって記録されているが、われわれはどうだろうか。多くの若い子どもたちはバラやツツジがいつ咲くのかすら知らない。ましてや音から秋の到来を知るなんてまったくできない。

 

 萌芽的春、绿荫的夏、凋零的秋、枯寂的冬在人类科学的进化中也逐渐迷失了。我们知道秋天的来临,竟不再是从满地的落叶,而是市场上的蟹黄,是电视、报纸上暖气与毛毡的广告,使我在秋天临窗北望的时候,有着一种伤感的心情。

芽吹きの春、緑濃い夏、枯れる秋、枯寂たる冬も、人類の科学的進化の中で次第に失われつつある。われわれは秋の到来をもはや地面いっぱいの落葉ではなく、市場のカニの卵、テレビや新聞に掲載された暖房器具や毛布などの広告によって知り、そのことは私に、秋に窓辺から北の空を眺めるとき、センチメンタルな気分を抱かせる。

 

 这种心情,恐怕是我们下一代的孩子永远也不会知道的吧!

こうした気分をわれわれの次の世代の子どもたちは、おそらく永遠に知ることはないのだろう。

 

 

节选自林清玄散文《秋声一片》

林清玄のエッセイ『秋を告げる音』より一部抜粋

 

 

 

 

 

◆翻訳にあたって◆

 

 林清玄は1953年台湾生まれの作家。カニは中国では川ガニが一般的で、特にその卵やみそが珍重され、そのためにカニといえば秋の味覚である。なかでも“大闸蟹”が有名で、特に蘇州の陽澄湖で獲れるもの(日本では一般に上海ガニと呼ばれている)が最高級とされる。 (福井ゆり子)

 

 

 

 

 

 

人民中国インターネット版  2017年9月

 

 

 

 

 

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