私は何人なのだろう。
岩瀬正美
思春期のころから、成人を迎えた現在に至るまで、この問いはずっと私の胸の中に残り続けている。私はいったい何人なのだろうか。
私の母は中国東北地区の生まれで、母が今の私と同じ歳に、母の故郷に旅行に来ていた日本人である父と知り合い、結婚のために日本に渡ってきた。その数年後に私は生まれ、日本で両親に育てられた。日本人が多く通うごく一般的な保育園にいたが、卒園を迎えた際に先生の勧めで小中学校は中華学校に通うこととなった。当時の私は中国語が話せなかったため、中華学校で不慣れな言語で勉強することにひどく緊張していた。いざ入学し、同じクラスの生徒を見ると、中国人である生徒や私と同じハーフである生徒、両親ともに日本人である生徒と、家庭や文化に違いのある生徒が多く、毎日クラスでは中国語と日本語が飛び交うような環境であった。はじめは緊張していた私も、片言ながらも中国語を話し、ともに勉強や日中文化の違いを教えあうような友人を作ることができた。気づけば私は中国語と日本語を織り交ぜた話し方をするようになり、中国と日本の文化両方が私の日常を築いていた。
中学に上がったころから日本の公立中学生との交流会が行われるようになり、ある日同じグループになった女子生徒に「あなたは何人なの。」と質問された。私は言葉に詰まってしまい、彼女に返答することができなかった。これまで私は自分が「何人」であるのかを考えたことがなかったからだ。彼女の質問に答えられなかった私は大きなショックを受け、家に帰って家族に同じ質問をした。母は日本国籍であるが、生まれも育ちも中国であるから自分は中国人であると答えた。弟も同じ理由で、自分は日本人だと答えた。しかし、私はどちらかに言い切ることにどうしても違和感を覚えたので答えが見つからずに、その日から自分が何人であるのかを考えるようになった。
中学を卒業し、私は県内の公立高校に入学した。これまでの学校生活から一変し、中国語を耳にする機会はなくなり、私は新しくできた友人たちには自分が日中のハーフであることを伝えることがなんとなくできなかった。
そのまま半年が過ぎたころ、中国にある姉妹校から交換留学生が私の高校にやってきた。彼女は少しの英語と日本語を話せてはいたが、担任との意思疎通が十分に行えなかったことが何度かあった。二人のやり取りを見ていた私はもどかしさを感じ、「あまり上手ではないけれど良かったら通訳しようか。」と中国語で彼女に声をかけた。二人は驚いた顔をしていたが、私に通訳を任せてくれた。必要事項の伝達を終えた後、二人は私に感謝を告げてくれた。このとき初めて私は中国語を勉強していて良かったと感じることができた。これまでの経験のおかげで人の役にたつことができたと実感することができたからだ。
これ以来、私は友人らに自身がハーフであることを告げ、友人らとともにその交換留学生と一緒にすごす時間が増え、再び中国語や中国の文化に触れる機会が増えた。「自分が何人であるのか」についても再び考える機会が増えた。また、彼女との出会いを契機に私はテーマパークでのアルバイトも始め、中国語を使う機会を自ら増やしていった。次第に私は中国語を話せることに誇りを感じていた。
大学生になった今も、私は自分が何人であるかはわからずにいる。しかし、これまでの経験から、少なくとも自身は「日本と中国の両方の良いところ」を持つ人間だと考えており、何もどちらかに限定した答えを導き出そうとしなくても良いのではないかと考えている。互いの良いところを自身が発信していきたいため、将来は「日本と中国とをつなぐ架け橋のような人」になりたいと私は思う。